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立野 進 氏

プロフィール

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昭和49年3月、鹿児島大学医学部卒業。
昭和52年より宮崎医科大学文部教官助手、同心会古賀病院、八日会藤元病院、宮崎県立宮崎病院外科医長を経て、都農町国民健康保険病院に院長として就任。

【所属学会】
日本外科学会認定医、日本消化器外科学会認定医、日本医師会認定産業医、マンモグラフィー健診読影医

医師になるきっかけは?

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祖父と父が医師で、父は国鉄の診療所の所長でした。国鉄職員やその家族の、いわゆるかかりつけ医という存在で、子どもの頃から働く姿を見ていました。自転車をこぎながら往診について行った記憶もありますね。おおらかな時代でしたから。ちなみに祖父は軍医で、だいぶ偉い人だったみたいです。

家族からは、特に「医師になれ」と言われていたわけでもありませんでしたし、進路も理系ではあるものの、はっきり決めかねているような普通の高校生でした。

当時、「ベン・ケーシー」というアメリカのドラマがありましてね、脳外科の青年医師が主人公で、悩みながら医師として成長していく物語でした。もう一つは「逃亡者」。これも主人公が医師で、冤罪で死刑判決を受けるが逃亡、真犯人を探しながら、行く先々では医師として困っている人を助けずにはいられない。人間の成長物語として、医師の生き様に興味を持ったのが医師になろうと思ったきっかけだったのかもしれませんね。

どんな研修医時代でしたか?

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鹿児島大学医学部は、僕らの卒業時まで医師国家試験の後、自分で診療科を決めてローテートするシステムをとっていたので、県立宮崎病院を研修先に選びました。これがちょうど宮崎医科大学が設立された年で、県病院に大学の先生たちもたくさん出入りしていて、だんだんと顔馴染みが増えていきました。2年目は鹿児島に戻る予定だったのですが、どうせ将来宮崎で医師になるのなら、このまま残れとスカウトされて、宮崎医科大学の第1外科に入りました。研究生として当時指導を受けていた瀬戸口敏明助教授の生化学の世界的な研究の手伝いをしていたのは貴重な経験となりました。

県立宮崎病院での2年間の研修医生活は、ほとんどが雑用係でしたね。手術は多かったのですが、なかなか今のように系統だったトレーニングが受けられる環境ではありませんでした。その代わり注射はとても上手になりましたよ(笑)。

卒業前は、外科か小児科の医師を目指していました。ドラマじゃないけれど、どんな時でも医師が必要とされるシチュエーションで、すぐに手を挙げて出ていける存在でありたいと。今でいうと救急なのかもしれませんが、その当時は救急という分野で学べるところがありませんでしたから。臨床現場で役に立つ医師であり続けたいというのは、今でも変わっていませんね。

地域医療へのターニングポイント

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3年目からは大学病院が完成して、本格的に医師として働くことになりました。基本的には消化器外科が専門で、その後、県立病院で乳腺(マンモグラフィ)の専従になったりもしましたが、へき地で医師が足りなくなっている現状というのは大学病院の中にも響いてきていました。

そんな折、都農国保病院には医局から医師を派遣していたのですが、前院長がお辞めになる際に声が掛かったのがきっかけでした。自分でも他の分野に興味がわいてきた時期でもあり、大きな病院で専門職を極めたり出世を追い求めるというタイプではないなと感じていましたので、渡りに船という感じでした。国保病院は、地域の医療と福祉と保健とを包括する拠点となるわけですが、そこに挑戦したいという思いもありました。

救急は地域医療の原点だと思っています。前任の院長が、内科と外科のダブル当直などオンコールで対応する体制を整えていましたので、その流れを引き継ぐとともに、地域のために病院がどう貢献できるかということを考えていました。正直、救急を一生懸命やると対応する医師やスタッフたちも大変です。それでも町立と名のつく病院がやらないわけにはいかないだろうという使命感が全員に浸透していたんですね。病院としての価値を下げるわけにはいかないと。消防との協力体制も万全で、高鍋辺りからも都農なら何とか受け入れてくれるだろうという信頼もありますし、西都児湯地区のメディカルコントロール協議会の会長も仰せつかっておりますので、断るわけにはいきません。

宮崎の地域医療は変わるか

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先日、交通事故の患者さんだったのですが、初めてドクターヘリとのランデブー搬送を行いました。救急隊が直接ドクターヘリとやり取りすることも多いので、実は今まであまり機会がなかったのですが、その導入効果を実感しました。

ただ、西都・児湯地域は、県内でも医師不足が顕著な地域で、16年前に着任した頃と比べると、当院の医師の数も7人から4人に減りました。定数をぎりぎり満たしてはいますが、私も他の医師とイーブンで当直に入りますし、非常勤の医師で何とか回っているという状況です。医師以外のコメディカルスタッフの数は変わっていません。退職者の代わりに新人が入ってきてくれていて、自然とうまく若返りが図られています。

病院としては、リハビリと訪問看護にも力を入れています。

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リハビリは地元の患者さんがやはり多いですが、理学療法士が3人体制というのはこの規模の病院では充実していて、国立病院機構宮崎病院の整形外科とのパス連携でやりとりをしながら、地域リハビリテーションに努めています。

訪問看護は現在対象者が20名ほどいらっしゃいますね。以前、24時間テレビのボランティアで寄贈された介護訪問入浴車を活用して訪問入浴事業もやっていたのですが、あまりに間口を広げすぎると忙しすぎてスタッフが疲弊しますので、使命感とのバランスをとるのが難しいところです。

県内の医療体制を充実させるには、県内唯一の医学部である宮崎大学の各科がもっともっと魅力的にならなければいけませんね。特に若い医師が安心して働ける環境を用意して、研修も充実している、専門医資格も取れるとなれば、多くの医師が集まります。へき地の病院には、一定期間修行だったり、あるいはリラックスするのに来てもらうというローテーションでも良いんです。県内で地域総合医育成の専門コースも始まりましたし、とても期待しています。

宮崎で働くこと、地域医療で働くには?

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この病院では、みんな患者を「様」とは呼びません。「さん」と呼んでいます。インフォームド・コンセントという堅苦しい言葉でなく、相談しやすい雰囲気作りを心掛けています。

医師になるのはある意味簡単で、「人が好き」ということに尽きます。人としゃべることが好きで、笑いを忘れずに患者さんとも冗談が言い合えて、という環境づくりを心掛けています。もちろん腕が立たないと患者さんに対しての責任が取れませんから、外科の手技も内科の幅広い知識も身に付けられるよう努めています。そんな地域医療の現場ですので、やる気のある人にどんどん飛び込んできてほしいですね。

宮崎で働くと元気になります。患者さんたちから元気をもらえますよ!

宮崎県地域医療支援機構(事務局:宮崎県医療薬務課)
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