日本人女性初•最年少でFACC(アメリカ心臓病学会特別会員)に選出され、現在も国内外の講演に引く手あまた。出産をきっかけに宮崎へUターンし、心臓病治療の拠点である宮崎市郡医師会病院で臨床医として復職、母校の宮崎大学医学部の臨床教授となり、さらには、AHA(アメリカ循環器学会)ジャーナルの編集者のオファーと、八面六臂の活躍ぶり。そのパワーの源泉をお聞きしました。
わたなべ のぞみ/大分県生まれ
宮崎医科大学卒業後、内科に入局。県立宮崎病院での研修医時代に循環器専門医を志し、1999年、川崎医科大学に赴任した吉田清教授の元、循環器内科教室の立ち上げから参画。その後、同科の講師を経て心血管画像解析室長となり、その間にFACC(アメリカ心臓病学会特別会員)に日本人女性初・最年少で選出。
国内外での講演多数。2009年に出産・育児休業を経て、宮崎にUターン。2014年より宮崎市郡医師会病院にて現職。2018年からは母校である宮崎大学医学部で臨床教授を兼任。
2018年にアメリカ循環器学会の公式ジャーナルであるCirculation: Cardiovascular Imaging の Associate Editor に任命される。
■宮崎市郡医師会病院 循環器内科・検査科科長
■宮崎大学医学部内科学講座 循環体液制御学 臨床教授
■AHA Journal, Circulation: Cardiovascular Imaging Associate Editor
父が宮崎市内で皮膚科の開業医をしていましたので、高校の進路指導では医学部に行くものと思われていたのですが、英語が得意なので語学の道に進みたいなとか、考古学も好きだったので史学部の入試要項を取り寄せたりと、結構ぎりぎりまで迷っていたんです。
担任の先生に「わかるよ、敷かれたレールの上を行くのが嫌なんだろ」と図星を指され、「医師になってからでも英語の勉強はできるけれど、語学に進んでから医師にはなれないよ」と言われて、「確かにそうだな」と素直に医学部を受験しました。根が単純なもので(笑)。
自宅の階下が診療所で、小学生の頃から診察室に出入りしていました。高校生になってからも親がカルテ作成や会計処理をしている姿を見ていたので、職業としてイメージしやすかったですね。父はもともとウイルス学の研究者で、祖父が亡くなってから自院を継いだのですが、研究者らしく組織検査など科学的なアプローチで病因を突き止めて診断し、それだけでなく、患者さんの話をよく聞いて、カウンセリングに近いようなこともしていたと思います。その姿が私にとっての理想の医師像になったのかもしれません。
医学部4年生の時にポリクリ(臨床実習)で県立宮崎病院の内科に1カ月ほど行く機会がありました。そこで田村和夫先生の熱心な指導を受けたのが内科に進もうと思った一番の理由です。アメリカ帰りの先生で、白血病がご専門でした。
父からも、皮膚科の医師になるにせよ、まずは内科全般を学ぶといいよと言われていましたので、迷うことなく、宮崎医科大学の第2内科(現 宮崎大学医学部 消化器血液内科)に入局することにしました。
実は当時、宮崎医科大学の皮膚科は女子御法度でした。今では考えられないと思いますが、「女はすぐやめるから」と公言されていて、そもそも入局すらできなかったんです。それがなければ、普通に皮膚科に進んでいたかもしれません。私が皮膚科の娘であることは学内では知られていましたので、卒業後、医局が受け入れるのだろうかというのは、ちょっとした噂になっていたみたいです(笑)。誤解のないよう付け加えると、当時の皮膚科の井上勝平教授はじめ医局の先生方には在学中随分かわいがっていただきました。おかしなことかもしれませんが、当時はその事を私も周囲もあまり変にも思わず、受け入れていたということです。時代ですね。でも、このことが、自分の今につながっていると思うと、人生って面白いなと思います。
研修医1年目は大学病院で、2年目は大学以外の病院で研修を受けるという流れだったので、派遣先だった県立宮崎病院の循環器病棟で6カ月間、腰を据えて研修することにしました。当時の循環器内科部長だった中川進先生のもとで、循環器内科医になりたいという思いが強くなります。その後、県外に出るときには後押ししてくださり、私にとって一番大きな出会いだったと思います。
3年目は大学の医局に帰るはずでしたが、教授にお許しをいただいて退局し、県立宮崎病院の循環器専門のレジデントとして残りました。病棟業務では、50床ぐらいを4人の医師で診ていて、当直でなくても病棟で何かあれば主治医として呼ばれるので、毎日、布団の横に診察着を置いて寝ていました。実家が県立宮崎病院から自転車で1分の距離だったので、当直医よりも先に到着し、除細動器を動かしていて、びっくりされるなんてこともありました。
「ブラック労働」なんて言葉すらない時代で、深夜2時ぐらいに帰宅して、医学書を開きながら寝落ちして、オンコールで呼び出されるというような生活でしたが、20代で若かったし、体力もあるし、スポンジみたいにやることすべてを吸収できていたような気がします。
最初は「若い女医が入ってきて何ができるのかしら」としか見られていなかったと思うのですが、対処ができるようになると、看護師さんたちの信頼度がどんどん上がっていくのも、身に染みてわかるんです。「先生、何かあったら呼ぶわね」と、日に日に知識と技術とともに、周りの信頼を得ていた時期で、楽しかったですね。
今の研修医の先生たちに、そんな生活をお勧めしようとは思わないですが、人間って、どこかでぐんと伸びる時期が絶対あるので、20代の吸収できる時期が踏ん張りどころだと自ら気付いてほしいですね。
私たちの仕事って、いつも結果が良いわけではなくて、力及ばず患者さんが亡くなることもあります。何とも言えない脱力感で夜中に帰宅するということもあるのですが、「俺たち精一杯やったよな」と気持ちが共有できる、同じ志の人たちと一緒に居られたというのは、恵まれていたなと思います。
カテーテル治療も好きで一生懸命学んでいましたが、中川先生の先進的な指導のもと、同時に「避けられる被曝は避けなさい」と厳しく教えられ、漠然とですが、PCI(経皮的冠動脈形成術)も一生続けられるものでもないのかなと思っていました。
研修医の頃から超音波検査にも興味を持っていたので、無理やり時間を作って検査室に出入りしていたら、中川先生が「有名な先生を講演に呼んであげるよ」とおっしゃって、そこで出会ったのが吉田清先生(当時、神戸市立中央市民病院)でした。
結婚も決まっていたのですが、1年間、無給医でもいいから世界トップレベルの環境で勉強したいと思って、手続きも済ませていたところに、「川崎医科大学の教授として教室を立ち上げることになったので手伝ってもらえませんか?」と吉田先生から連絡がありました。場所がどこかも知らなかったのですが、父に相談したら「人についていきなさい」ということで、突然、岡山県倉敷市に行き先を変更。ここが最大のターニングポイントですね。
吉田先生の助手という立場でチャンスをいっぱいいただいて、またそれがありえないぐらい高いハードルで、必死に乗り越えているうちに気が付いたら10年経っていたという感じです。
今振り返っても、誰にも恥ずかしくないぐらいの努力はしてきたと思います。24時ぐらいに通常業務と後輩の指導が終わってから、夜中を自分の勉強の時間にしていて、レジデントの頃よりも寝る時間は少なかったですし、家族との生活やいろんなものを犠牲にしてきましたが、それができたのは、周りの環境に恵まれていたからだと思います。川崎医大の先生や後輩、技師さんたちとも仲が良かったですし、主人とも出張先で会うというような生活でしたが、私の活躍を喜んでくれて、本当に良い人と結婚できたと感謝しています。
もともと研修の延長の予定で宮崎から出てきたはずだったのに、教室の立ち上げからのスタートでしたので、医学生を教える立場でもありました。検査室では、技師さんが困らないように立ち回らなければなりませんし、3年目には後期研修医が5名入ってきました。年齢も5歳ぐらいしか変わらないので、お姉さん的な存在ではありましたが、一から心電図を教えて、勉強会を主催し、検査画像を見て指導しながら、時にははったりで進めて、後で吉田先生に確認するというような毎日でした。
彼らも私が夜中までいるのを知っているので、当直時に困ったらサポートに呼ばれましたし、大学院に進む際には、一緒に研究したり指導したりしていましたね。自分が育ちながら人を育ててきたというところもあるので、みんなでずっと走ってきて、気が付いたらいろんな成果が出ていたという感じです。今でも慕ってくれて、ときどき電話がかかってきますよ。
5年目でFACC(アメリカ心臓病学会特別会員)に選出されてからは、アメリカでの仕事も増えてきて、半年後とか1年後のスケジュールも埋まるようになっていました。そうなると、年度替わりのタイミングで宮崎に戻ろうという発想もなくなってきて、10年間がたった頃に子どもを授かりました。
子どもを無事に生み育てることが一番の仕事だと思ったので、宮崎に戻って出産の準備に入りました。川崎医大には籍を置いたまま、メールで画像解析や院生の論文の指導もしてはいましたが、ほぼ引退状態でした。
私の場合は、すごく早いうちにある程度の経験やキャリアを積んでから、出産というパターンだったので、おそらく同じポジションで復職することも可能だったと思うのですが、その時は、戻るかどうかすら決めずに、入っていた海外の仕事も全部断りました。
アメリカの先生たちには、後で出産したことを知らせると、ものすごく喜んでくれて、「今は赤ちゃんとの時間を大切にして、出てこられるようになったら連絡を頂戴」というような言葉を掛けてもらいました。
のんびり子育てをしながら、10年前からお世話になっていた、県立宮崎病院の豊田清一院長(当時)に出産の報告のために会いに行ったところ、ちょうど県立病院で女性医師の復職支援も兼ねて非正規の医師を雇用するプロジェクトが立ち上がったタイミングだったようで「1週間に1日でいいから」とお誘いを受けました。
娘が8カ月ぐらいで、復帰は全く考えていなかったのですが、得意なことでお役に立てるならと検査や心臓血管外科の術前術後の診断を週1日に寄せていただいて、県立宮崎病院で復職することになりました。
その後、宮崎大学医学部附属病院から、復職した女性医師を2名預かってくれないかという話があり、それぞれ週1日ずつの勤務で一緒に働き始めました。二人ともすごく能力が高かったので、臨床と研究も一緒にやろうよと声を掛けました。のんびりしようと思っていたのですが、人を預かるとなるとそうもいかず、それぞれ子育てしながら、子どもを寝かしつけた後、夜中に論文を書くという生活が始まりました。アメリカの研究発表にも一緒に行き、受賞もして、それが再び人を育てるというモチベーションにつながりました。
4年間、非常勤医師として、勤務日も週に2日、3日、4日と増やしながら、宮崎市郡医師会病院にも月に1回ぐらいのペースでエコーを教えにきていました。センター長の柴田剛徳先生からお声掛けいただいたのがきっかけですが、ポストを用意するからと、画像診断室の室長としてフルタイムでの復帰となりました。
大学ではない一般の救急病院から、サイエンティフィックジャーナルに毎年論文を投稿しているのもすごいことですし、世界のトップジャーナルに、後輩たちの論文が掲載され、受賞しているのも今の私の喜びとなっています。また、地元なので親戚や同級生が具合悪いと言ってきたときにすぐ診られるというのも、宮崎に帰ってきてよかったところですね。
復帰したことが知られると、海外からの仕事のオファーも入ってくるようになりました。今、注力している仕事は、AHA(アメリカ循環器学会)ジャーナルの編集員です。ジャーナルに投稿された論文を審査に回すかどうか、レビューを誰に頼むかという大変な仕事なのですが、自分のチャレンジと思ってお受けしました。自分がもともと投稿していた誌面を自分が作る立場になるとは思ってもいませんでしたが。
体力だけはあって、今のところ、日中は病院の仕事、夜中にジャーナルの仕事も出来ているのですが、いずれ無理は利かなくなると、夜寝るようにしていたら、仕事がどんどん溜まるんですよね(笑)。
いつまでも患者さんを診ていたい気持ちはありますが、何もかも欲張ってはできないので、後輩たちに任せられることは任せて、陰でサポートしながら、自分にしかできないことをやっていくのが良いのかなと思い始めました。川崎医大の時は、ほとんどが学生の指導でしたが、今は学生もレジデントも、女性の学生や医師も増えているし、バリエーションがあって楽しい職場ですね。
私は診断の専門医としてオペにも入っていますし、心臓血管外科と協力して、患者さんを助けるのが自分の大切な仕事だと思っていますが、同時にアカデミックな仕事も宮崎から世界に発信し続けていきたいと思っています。
後進たちにも医療のアカデミックな部分の楽しさや面白さを伝えていきたいです。臨床医であっても科学的な視点を基本に持っておくことが必要で、臨床と基礎研究は医療の両輪ですよね。
本来それをやるのが大学なのですが、現在の臨床研修制度だと、大学以外の病院のローテートを組むと、研究論文などのアカデミックな分野に触れないまま、研修期間を終えてしまう人たちがいるかもしれません。この病院に来て気が付いたのですが、いくらトップジャーナルに出しても、大学に在籍していないと医学博士は取れないんです。
宮崎大学医学部の社会人大学院の病理教室に入れてもらった後輩がいるのですが、新しい取り組みとして、大学の基礎の先生や、他分野の工学系の先生たちと一緒に、病院の垣根を超えたコラボレーションを考えています。臨床と基礎との融合というか、臨床研究の幅を広げることで宮崎の医療に貢献できるかなと思いますし、同級生も教授になっている世代なので、協力体制が築きやすいのも、宮崎に帰ってきてよかったポイントですね。
研修医2年生の時に退院される白血病の患者さんからいただいたメッセージなんですが、それをそのままメッセージとして贈りたいと思います。
「本気ですれば大抵のことができる。本気ですれば何事もおもしろい。本気ですれば誰かが助けてくれる。」
とにかく今を一生懸命やっていたら、必ず次の扉が開きます。あまり先のことを考え過ぎずに、5年以内ぐらいのちょっと先を考えて、今できることをやっていれば、助けてくれる人が現れるし、そのタイミングで、違う方向に歩いてもいいじゃないですか。
もうひとつは人との出会いを大切にしてほしいですね。
人生でチャンスは何回も来るわけじゃないので、その時にちょっと背伸びしてでもチャレンジする勇気を持つと、新しい扉が開くと思いますよ。