枝元 真人(えだもと・まさと)
1984年宮崎市生まれ、宮崎西高校出身。大学卒業後、大手製鉄会社でエンジニア職に就くも、医師になろうと、宮崎大学医学部を受験。卒業後は、沖縄県立中部病院にて初期研修。宮崎にUターンし、宮崎大学医学部地域医療・総合診療医学講座の「総合診療専門医プログラム」を履修。串間市民病院で後期研修のスタートを切る。2年目は、都農町国民健康保険病院で、総合診療科の立ち上げに参画。
宮崎大学医学部 地域医療・総合診療医学講座 助教
大学卒業後、東京で働いていた頃、立て続けに祖父母が亡くなり、それまで人生で関わることのなかった医療を急に身近に感じるようになったんです。もともと将来的には宮崎に帰ろうとは思っていましたので、そのタイミングが意外と早く来たという感じですね。
仲の良い同級生が医師になっていたことも、きっかけの一つではあるのですが、医療のマネジメントに興味があり、医療行政に携わりながら、臨床もできたらなあというキャリアプランを考えて、宮崎に戻ることにしました。
一度、社会経験があるからか、医学部は、やや閉鎖的な環境だと感じましたね。他学部だったら、一般教養の講義などで他学部と触れ合う機会やアルバイトなどで出会いの幅も広くなると思うのですが、医学部の場合は、部活は学部内で完結することが多く、一般的な就職活動もありませんし、あまり社会に触れないまま、医師になっていく学生が多いのが気になりました。
自分自身は、医学部に入学はしたものの、皆よりも八年遅れていることになるので、早く一人前の医師にならないと、という焦りがあり、学生時代から前倒しでやっていこうという気持ちはありました。
せめて、フィールドワークで外に出るような活動がしたいと思って、医療系のサークルに入り、鹿児島や大分の大学医学部と交流したり、宮崎県内の管理栄養士さんや看護学生さんなど多職種の方たちを集めた勉強会や合宿、フォーラムを定期的に開いたりしていました。
先輩たちと臨床のトレーニングをするサークルを一緒に立ち上げたり、吉村学教授の立ち上げたFMIG(Family Medicine Interest Group)と連携しながら、地域医療を勉強するサークルを運営したりしていました。
地域医療に興味を持ったのは、実は入試の前からで、宮崎の医療事情を考えて、医療行政の方に行こうと思っていたのですが、実際医学部に入ってみると、どう考えても現場に人が足りない、高齢者を全人的に診る総合医療の医師が絶対的に不足しているということと、保健・予防・介護の分野にも通じている医師を育てないことには、専門医ばかり増えても、地域医療は回らないぞと気が付きました。
初期研修で沖縄県立中部病院を選んだ理由は、とにかく臨床経験ができるということが全てでした。歴史的には、終戦後の沖縄の医療を支えるために立ち上げられた病院で、当初からアメリカの臨床研修・教育をベースに研修を行っており、初期研修医に主治医を任せて教育するという文化がありました。
多くの研修病院では、初期研修医は患者さん5~10人を受け持ち、基本的には指導医の指示に従うような方式になると思いますが、沖縄県立中部病院の初期研修医は、常に20人以上の入院患者を担当して、基本的に自分でマネジメントするので、圧倒的な経験値が溜まるわけです。
手っ取り早く医者になるには、自分を鍛えるしかないと思い、沖縄に行きました。
とにかく最初はつらかったですね。終日フリーの休みは2週間に1回、当直は月8回から10回、しかも眠れないのが当たり前といった感じで、慣れるまでは体力的にきつかったです。ただ、それよりも、自分の力不足に対する怒りや悲しみの方がきつかったですね。一応、自分なりに医学部で6年間勉強してきたつもりではあったのですが、実際に目の前で、患者さんが苦しんでいるのを見たときに、パニックになったり、何をしていいか分からずにフリーズしてしまったり、自分が何もできずに無力感を感じることが多かったので、それが一番つらかったかなと思います。
いろいろな診療科をローテートしながら、主治医としての判断を委ねられるので、患者さんやご家族に対して病状説明や療養先の相談を行いつつ、施設との折衝や退院調整など本当に泥臭いこともやりながら、アドバンスドケアプランニングで患者さんの人生について話し合ったりもしていました。卒後2年目の医師が患者さんの人生に、主治医として向き合う経験をさせていただくわけで、責任は重いですが、一人一人の患者さんを自分で診られるという楽しさと充実感は、日常的に感じていました。
一方で、救急患者がひっきりなしに来る病院で、救急のローテーションに入っている時期は、自分1人で救急車2台を同時に対応しながら、ウォークインの患者さんを3、4人同時に診るといった状況が日常的で、最初は本当に何が何だか分からなかったのですが、慣れてくると意外とできるようになっていて、自分の対応スキルのレベルアップと、医師としての成長が感じられる環境ではありましたね。
宮崎に絶対戻ってくるつもりで沖縄に行ったのですが、終わりが近づくとやはり悩みました。初期研修の2年間で結構な経験を積ませていただいたのですが、重症管理や手技系の研修は3年目以降で行う病院なので、まだ足りない部分があるなと。離島医療も経験したかったですし。
ただ、宮崎に早く戻りたい理由もあったんです。宮崎大学に入ったのも、宮崎で活動していくために、学生時代からコネクションを作りたいという目的があったので、その繋がりを大切にしたいという思いがありました。宮崎を離れている期間が2年間だけであれば、新しい初期研修医や実習で回ってくる医学生も、自分が学生時代に一緒のキャンパスにいたので、だいたいの顔は分かりますし、自分のことも知ってくれているだろうという思いがありました。
もう一つの理由はもっと深刻で、宮崎で総合診療を希望する専攻医が途絶えている状況だったということです。自治医科大出身の先生をはじめ、総合診療医として活躍している方々はもちろんいらっしゃるのですが、宮崎大学医学部を卒業して、そのまま初期研修を受けて、ストレートに総合診療プログラムに飛び込んでくるという後期研修医が、直近は䅏田一旭先生しかいない。ここで自分が帰らないで専攻医ゼロの状態が続くと、せっかく長田直人教授や松田俊太郎先生が立ち上げて、吉村学教授が大きくした炎が立ち消えてしまう。学生時代からお世話になっていた先生たちに対して、そういうわけにはいかないなという思いもあったんですよね。
医学部4年生ぐらいから、行くなら総合診療科だなと決めていましたので、あとは、その中で慢性疾患の外来診療や訪問医療・看取り、地域の保健・介護機関との連携などを中心に行う家庭医寄りになるか、ゲートキーパー・一般急性期入院管理を中心に行う病院総合診療医寄りになるのか、どの色を強くするかの選択だけでした。やっぱり患者さんのことを全部知っておきたい性分なんでしょうね。もしこれから別の何かの専門医になるにしても、リハビリテーションや緩和ケアなどの全身を診られる診療科で勉強したいなとも思っています。
後期研修の1年目は、串間市民病院が拠点でした。地域の急性期入院の大半を診つつ、在宅看取りを含めた訪問診療も行う病院で、高齢化と地理的な条件から他の医療機関への転院や紹介のハードルも高いため、地域の最後の砦として、ある意味逃げ場のない中で、地域の患者さんから鍛えてもらったと思っています。
現在は後期研修の2年目で、都農町で総合診療科の立ち上げに携わっています。宮崎市も延岡市も日向市も近いので、今までの環境とはまた違う地域医療における病院連携を体験できそうだと思いましたし、何より新しく立ち上げるという仕事に魅力を感じて、もともと2人の枠だったところを1枠増やしていただき、メンバーに加わらせてもらっています。
当初のプログラム上では、現在は県立日南病院で内科の研修を受けている時期なのですが、最短で専門医を取れなくても、それ以上に価値のある経験ができていますので、プログラム上は6か月の予定の総合診療科を1年に延長させてもらっています。
都農町は子育て世代も多くて、町の雰囲気も良いです。ただ、地域の中で完結した医療が十分には提供できていないので、まだまだ改善の余地はありそうです。西都児湯医療圏全体の医療のリソースが足りていないこともあって、以前から救急搬送患者の医療圏外への流出が多い地域なんですね。地域の全ての医療機関で救急対応が24時間必要なわけではないのですが、ある程度地域の中で機能分担しながら、町立病院として地域住民の命をしっかり守っていけるような体制づくりは必要だと思います。
串間市民病院では、小児科がなかったので気付かなかったのですが、子育て世代のお父さんお母さん方とお話をすることが多くなって、仕事や子育てがある中で自分の健康のために病院に来るのは、結構ハードルが高いんだなと。これまでも小児科の先生が小児だけでなく子育て世代にも気を配っていただいていましたし、保健センターでもすでにいろいろな取り組みがなされているので、この世代の健康管理や予防に関わる指導に、総合診療科もお手伝いさせていただいて、町全体で力を入れていきたいなと思っています。
もう一つの課題は、在宅医療です。高齢になって、病院に来ることも難しい方々はますます増えてきています。僕たちが赴任する前から都農病院では訪問診療や看取りに取り組まれてはいたのですが、家庭医の必要性はもっともっと高くなると思います。それから終末期医療ですね。特に新型コロナウイルス感染症の流行に伴い、病院の面会条件が厳しくなりました。最期の大事な時間を病院で一緒に過ごすことは難しくなっているので、だからこそ在宅にはすごく価値があります。
コロナについては、当院が感染症の指定病院ですので、日常的に入院患者さんを担当させていただいています。流行期の間は、在宅に出る医師とコロナを診る医師を完全に分けて対応していました。
後期研修医の立場で、この最前線に立っているのは、本当に勉強になります。医療機関によってできることは違いますし、コロナにばかり着目していると、実はもっと重篤な発熱をきたす病気を見逃さないとも限りません。実際、1病棟・65床という規模の病院でこれだけのコロナ患者さんの入院を受け入れている病院というのは、なかなかないのではと思っているのですが、病棟をどのように運営するのが一番安全なのかを話し合ったり、臨床だけでなくて、チームマネジメントやネットワークに関わる経験とかもさせていただいたりと、病院が一丸となって、みんなで取り組むという経験にとても価値を感じています。
最初の10年は臨床が基本になると思いますので、次の10年では、行政との架け橋とか、病院を飛び出した活動を増やして、地域全体のレベルを上げることに取り組んでいきたいと思っています。
自分自身の臨床能力を伸ばしていくことはもちろんですが、今、一番やりたいことは医学教育です。まずは、初期研修医の教育に力を入れたいと思っています。串間市民病院で初期の先生たちと一緒に仕事をさせてもらうことが多かったのですが、大学病院ベースで研修していると、難しい・専門性の高い病気についてはかなり勉強しており、また学会発表などアカデミックな分野には強いと感じることも多かったんですけど、生活背景を含めて患者さんの全身を診て、一般的なありふれた病気(common disease)を自分一人で診る・治療するという経験はなかなかできていないんですよね。これは大学病院の機能や立ち位置を考えると、仕方がないことだと思います。
初期研修医全員が総合診療の道に進む必要があるとは思わないですが、どの診療科に進むのであれ、初期研修の2年間で全身を診る力をトレーニングができる環境を作っていけたらと考えています。その拠点となるのは、ある程度初期研修医の数が多い、宮崎・日南・延岡の県立病院だと思います。大学病院も初期研修医の重要な拠点ではあるのですが、重症度が高く病態が複雑な患者さんが多いので、そこで初期研修医に臨床的な意思決定を求めるのは厳しい部分もあるかと思います。大学病院を基軸として集学的・高度医療を学び、市中の病院でcommon diseaseに触れながら一般急性期の臨床力を鍛え、さらに都農のような地域の病院で家庭医や在宅医療の視点まで持ってもらえたら、良い研修ができるのではないかと思います。
また、2020年度から都農町で長期滞在型の医学生実習を開始しました。医学科5~6年生が3か月間連続で都農町に滞在し、外来から病棟管理まで主治医として実習してもらうというものです。主治医の視点で患者さんの全身を診るという経験をした上で国家試験勉強に臨むことで、実習前とは違った視点・視野から座学に努められるのではないかと思っています。
主治医になってほしいの一言ですね。医学生実習は参加よりも見学が主体ですし、初期研修も消極的な姿勢でいると、自分で手を動かしたり指示を出したりすることは少なくなり、指導医や先輩医師からわからないことを聞いて習うことが主になり、どうしてもインプットベースになりがちです。患者さんのすぐ横に寄り添って、自分で責任を持って治療の方向性を決めるという主治医としての経験を積んで初めて成長できると思います。
指導医は後ろで支えますので、たとえ間違えてしまってもいいから、自分が患者さんの主治医だという気持ちで、この患者さんを良くするにはどうすればいいのか、その責任を持つことです。何かあって悪くなったら自分のせいだと思ってほしいですし、逆に良くなったとしたら自分の力が足りていたのだと考えて自信を持ってほしいですね。
主治医になってほしいの一言ですね。医学生実習は参加よりも見学が主体ですし、初期研修も消極的な姿勢でいると、自分で手を動かしたり指示を出したりすることは少なくなり、指導医や先輩医師からわからないことを聞いて習うことが主になり、どうしてもインプットベースになりがちです。患者さんのすぐ横に寄り添って、自分で責任を持って治療の方向性を決めるという主治医としての経験を積んで初めて成長できると思います。
指導医は後ろで支えますので、たとえ間違えてしまってもいいから、自分が患者さんの主治医だという気持ちで、この患者さんを良くするにはどうすればいいのか、その責任を持つことです。何かあって悪くなったら自分のせいだと思ってほしいですし、逆に良くなったとしたら自分の力が足りていたのだと考えて自信を持ってほしいですね。