一生勉強しても飽きない学問は?と、神経生理学の道へ。そこは、パーキンソン病、ALS(筋萎縮性側索硬化症)など、不治の病とされている神経難病との壮絶な戦いの場だった。防衛医科大学から陸上自衛隊に勤めながら、体を動かすメカニズムを知りたいと、中枢神経障害、大脳機能の基礎研究の世界的な研究者に師事。2011年の東日本大震災の翌年、家族とともに移住。当時、神経内科医不足が深刻だった宮崎で新しい挑戦を始める。
もちづき ひとし/大阪生まれ
製薬会社勤務の父親と薬剤師だった母親の下で幼少期は日本国内外を転々としながら、10代は神奈川県鎌倉市に引越し。防衛医科大学に進み、神経内科学講座の鎌倉恵子氏に師事。卒業後は防衛省へ入庁し、医官として陸上自衛隊に勤務。その一方で神経生理学の世界的権威の宇川義一氏、ロンドン留学ではRothwell氏のもとでニューロサイエンスの研究にいそしむ。東日本大震災をきっかけに、妻の実家宮崎へ移住。
■宮崎大学医学部附属病院 神経内科
■宮崎大学医学部内科学講座 神経呼吸内分泌代謝学分野講師
防衛医科大は、規律に厳しく、上下関係もしっかりしています。体育会系なので、先輩からのしごきはきついですが、その後の後輩へのフォローも手厚いという仲間意識の強い世界です。
卒業後は陸上自衛隊に勤務することになるのですが、当時では珍しいスーパーローテーション方式の研修で、小児科も内科も外科も麻酔科も幅広く学びます。部隊の演習にも付き添いますので、のちのち現場での隊員の傷の治療など外科の知識や経験が役に立ちました。
当時は、卒業までに専攻科を決めるのが一般的だったのですが、何を選ぼうか迷った末、一生勉強しても飽きないことをやろうと考えました。神経内科を選んだ理由は、実は学生時代に一番理解できなかったジャンルだったからです。
国家試験前の頃でしたが、防衛医大に神経内科を立ち上げた鎌倉恵子先生の外来に付かせてもらいました。
神経難病は、現在でも治療法がない病気が多く、徐々に失われていく体の機能に深い悲しみを抱く患者さんがたくさんいます。診察では、症状を一つ一つ聞いて、治療法を導き出すのですが、まだ治療法が見つかっていない場合も多く、別の対処法で病気と付き合いながら生活を組み立てる、という状況が延々と続きます。
鎌倉先生は一人一人の患者さんに対して、すべてに真剣勝負で、外来は数時間待ちということが珍しくありませんでした。その壮絶な現場を間近で見ていて、この患者さんたちのためになるような医師にならずに、何のための医師免許なのかという思いが生まれました。
その日の外来が終わり、鎌倉先生からは、「普通の医者ができることは普通の医者にやってもらえれば良い。私は私にしかできない医療をしています。あなたもそういう医者になりなさい。」という言葉をもらいました。
縁あって、神経生理学の権威である宇川義一先生のもとで勉強させていただくことになり、体性感覚誘発電位、大脳磁気刺激法、近赤外線トポグラフィーなどを使って、大脳の研究に携わるようになりました。また、2001年からは、久里浜医療センターでアルコールによる中枢神経障害の研究にも従事し、中毒と神経症状へのアプローチを学びました。
2004年からはロンドンに留学し、大脳生理学の大家であるRothwell教授のもとで、磁気刺激法による大脳機能解明の基礎研究をすることになります。まだ生後半年だった末娘を含めた家族6人で移住したので、子育ても大変でしたが、貧乏ながらも楽しい生活でした。
自衛隊の医務官を退官し、国立病院機構東埼玉病院の神経内科で、新たに臨床医としての生活が始まりました。神経内科だけで180の病床数、神経内科医も10人以上と神経難病のメッカといわれている規模の大きい病院でした。川井充先生に神経難病医療はどうあるべきかを学び、ここでの2年間が、私の医療に対しての姿勢を決定づけました。
2008年からは、再び宇川先生のもとで働くことになり、福島県立医科大学神経内科で、福島県全体の神経難病医療の担当となり、臨床と研修に力を注げる環境が整いました。
そして、2011年3月に東日本大震災が発生します。
原発事故の影響が軽くはないと判断した時点で、妻と4人の子供たちは妻の実家である高鍋町に避難しました。復興が長期になりそうでしたので、子どもたちはそれぞれ宮崎県の学校に転校させました。
数ヶ月がたち、宇川先生に今後のことを相談したところ、当時、宮崎の神経内科医の不足は学会でも知られていたので、「宮崎の患者さんのために働いてこい」と温かい言葉をいただきました。福島の慌ただしい状況は、半年ほどでそれなりに落ち着いてきていて、医局にも人が戻りつつあったので、宮崎への移住を決心しました。
まず考えたのは、宮崎でどんな医療をしようかということです。医師の知り合いもいなかったので、防衛医大病院時代に、同じ病棟の違う診療科で働いていた日高利彦先生を思い出し、防衛医大のつながりのみで突然メールを送りました。大学の縁は強いもので、日高先生より丁寧な返事があり、市民の森病院の案内と、神経内科の花岡保雄先生をご紹介いただき、宮崎県内で働くにあたって多くのアドバイスをいただきました。
宮崎でも、私が経験した関東や東北の医療と同じでした。患者さんの悩みや、医療資源の問題にも大きな違いはありません。福島でも田舎の方に行くと、なまりの強い患者さんはいましたし、だんだん慣れてくれば高齢の方のお話も聞き取れるようになるのも同じです。ただ、地域的な特性として、HTLV-1関連脊髄症の患者さんが多いのには驚きました。これまで年に1度出会う程度だったのが、週に数例も診るようになりましたので、この病気のために何かしないと、という思いを強くしました。
2012年4月に、宮崎大学医学部附属病院への異動が決まり、内科学講座神経呼吸内分泌代謝学分野の中里雅光教授のご高配で神経内科の医局に入局することができました。当時の神経内科は塩見一剛先生お一人での医局に、移住したばかりの私と後期研修医2名が加わり、4名体制でした。
6月には、その4人で、ヒ素公害の土呂久検診に参加しました。これがきっかけで、ヒ素の神経障害に興味を持ち、研究を始めました。現在は、JICA(国際協力機構)の活動として、ミャンマーのヒ素汚染地域での活動もしています。宮崎大学の国際連携センターや医学部長、公衆衛生の先生方も一緒に動く一大プロジェクトとなっています。
まず目指していることは、私と一緒に患者さんに寄り添う医療を実践してくれるハートフルな医師を育てることです。神経内科医でなくても構いません。宮崎県の出身者は、優秀で素直な人材が多いので、学ぶ方向性とハートを伝えれば、素晴らしい医師に成長することは間違いないです。
そのためには、魅力ある研修環境が必要かなと思います。現時点でも、素晴らしい研修システムではありますが、大学病院でありながら、各科の垣根が低く、まとまりが良いという特徴を生かして「宮崎モデル」として全国的に有名になるぐらいの研修環境作りに励みたいです。
並行して実現したいのが、研究環境の充実です。医療へのAIやロボティクスの導入は、これからの人口減少社会に対する大きなメソッドです。神経内科の診療はアナログな診療が多く、デジタル化・AI化は困難とされていますが、宮崎大学では、先進的な取り組みを始めました。
工学部や農学部の先生方と一緒に、神経診察の定量化と、定量データのAI分析の研究をしています。そのうちの一つは、かなり良いアイデアで、特許申請して、宮崎県内のIT企業と共同開発しており、世界への普及を目指しています。これも、学部間の垣根が低く、産学官連携に積極的な宮崎大学だからできている取り組みです。
私たちとしては、AI導入で短縮化されたプロセスで作られた時間を、患者さんに寄り添う時間に充てることができ、理想の医療の実践にフィードバックするという目的で、開発研究を進めていきたいと思っています。
全国では、パーキンソン病の治療として、iPS細胞移植の治験も始まり、治療法がないとされていた難病も、次々に新たな治療法が確立されつつあります。診療データを研究に生かし、研究成果を臨床に生かすことを常に心がけています。
私の所属する内科学講座神経呼吸内分泌代謝学分野は、「神経内科」「呼吸器内科」「内分泌代謝糖尿病内科」の3つの診療科があります。統合科長の中里先生は、ペプチド研究で世界を席巻するほどの研究者です。神経内科科長の塩見先生は、宮崎大学病院内科研修プログラムの担当者で、若手医師の成長に絶えず気を配っています。研究・教育・臨床のバランスが取れた医局です。
東京の医療と宮崎の医療のレベルにほとんど差はありません。世界の最先端から遅れてしまうというような心配は全く不要です。地域特性や環境に合わせて、インパクトのある研究をすることも十分可能です。
2012年には4名だった神経内科も15名近くにまで増えました。毎年1~2名の後期研修医が入局し、忙しくも楽しい日々を送っています。医局は、お昼ご飯を集まって食べることも多く、和気あいあいとした雰囲気で、会話も弾み、宮崎人の「人の好さ」を体現している感じの、とても働きやすい環境です。患者さんの治療方針の相談についても、キャリアデザインに関しても、日本最高峰のアドバイザーが多数存在しますので、ご安心ください。
私の所属する内科学講座神経呼吸内分泌代謝学分野は、「神経内科」「呼吸器内科」「内分泌代謝糖尿病内科」の3つの診療科があります。統合科長の中里先生は、ペプチド研究で世界を席巻するほどの研究者です。神経内科科長の塩見先生は、宮崎大学病院内科研修プログラムの担当者で、若手医師の成長に絶えず気を配っています。研究・教育・臨床のバランスが取れた医局です。
東京の医療と宮崎の医療のレベルにほとんど差はありません。世界の最先端から遅れてしまうというような心配は全く不要です。地域特性や環境に合わせて、インパクトのある研究をすることも十分可能です。
2012年には4名だった神経内科も15名近くにまで増えました。毎年1~2名の後期研修医が入局し、忙しくも楽しい日々を送っています。医局は、お昼ご飯を集まって食べることも多く、和気あいあいとした雰囲気で、会話も弾み、宮崎人の「人の好さ」を体現している感じの、とても働きやすい環境です。患者さんの治療方針の相談についても、キャリアデザインに関しても、日本最高峰のアドバイザーが多数存在しますので、ご安心ください。