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上谷 かおり 氏

新型コロナウイルスの広がりにより、日本全国の保健所が多忙を極めていることは世間の知られるところとなったが、その保健所の所長が医師であることは、一般的にも、ましてや同じ医師でさえも知られていないことがある。
2020年7月、宮崎県内で最初にクラスターが発生した高鍋町。前例のない中で初動対応にあたったのが高鍋保健所の所長の上谷氏。行政医師になるに至った思いの変遷や、公衆衛生分野の魅力、女性医師のキャリアデザインについても、幅広く話を聞かせていただいた。

プロフィール

うえたに かおり

1997年宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)卒業後、第3内科(現・神経呼吸内分泌代謝学)に入局。
大学病院で2年間の研修ののち、一般病院で内科、呼吸器内科医としてのキャリアを積み、行政医へ転身。2016年、宮崎県庁に入庁し、その後、高千穂保健所所長に着任。2019年より高鍋保健所へ異動し現職。2020年7月にはDHEAT(災害時健康危機管理支援チーム)の一員として熊本県水俣保健所へ派遣、同月、宮崎県で初めて発生した新型コロナウイルス感染症のクラスター対応にあたる。

    【専門】

  • 社会医学系専門医
  • 日本内科学会総合内科専門医
  • 日本結核・非結核性抗酸菌症学会認定医
  • 日本睡眠学会専門医
  • 日本感染症学会認定ICD(インフェクションコントロールドクター)
  • 日本医師会認定産業医
    ※DHEAT…Disaster Health Emergency Assistance Team

医師を目指したきっかけは?

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小さい頃、『ひまわりの歌』というテレビドラマが大好きで、弁護士になって困っている人を助けたいなと思っていました。もともと正義感が強かったのと、活発な性格も相まって、しょっちゅう男の子とも喧嘩してましたし(笑)。

ただ、学生時代は文系科目が苦手で、弁護士になるのはかなり大変そうだと諦めて、それでも、何か人を助けられる仕事に就きたいという思いはずっと持っていたので、医師を目指すことにしました。

どんな学生時代を過ごしましたか?

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当時の宮崎医科大学の医学部は1学年の定員が100人ほどで、女子は3割ぐらいでしたが、男女問わず仲が良かったです。医学部だけの単科大学でしたので、100人一クラスで同じ授業を受け、先輩や後輩とも距離が近く、濃度の濃い特殊な環境だったと思います。楽しい思い出はたくさんあって、答えきれないくらいです。あまり真面目な学生ではなかったので、試験はいつも苦労していました(笑)。

印象深い思い出としては大学3年生の時の解剖実習です。

課題が終わらないときは夜中まで実習をしていました。夜中の大学構内で実習室の電気だけが明々とついていて、ひたすら解剖を続ける、ひたすらに人体と向き合う日々。あのときはそれを不思議とも思っていませんでしたが、その時の真摯な気持ちは今でも忘れずに持っていますし、献体をしてくださった方やご遺族の方には感謝しかありません。

そんな苦労を共にした同級生とは、卒業して、それぞれ活躍している場所が変わっても、いまだに集まって食事したり、近況報告をしたり、研究分野の話を聞いたりして、相変わらず付き合いが続いています。

現在のキャリアを選んだ理由は?

卒業後、呼吸器内科(第3内科)に進んだのは、母が間質性肺炎という病気にかかったことがきっかけでした。

当時、母を診ていただいていたのが、宮崎医科大学の呼吸器科で指導をされていた先生でした。母の病状の説明以外にも、大学病院の話や、宮崎の医療事情を聞かせてもらったり、時には飲みに連れて行ってもらったり。とても面倒見のいい先生に出会えたことや、専門的に勉強すれば、将来、母の役にも立つかなと考え、医局に入らせていただきました。まだ宮崎には呼吸器専門医は少なく、医局にも10人弱という小所帯でしたが、アットホームで楽しい環境でした。

大学病院で2年間の研修の後は、医局に籍を置いたまま、大学以外の病院で臨床医として働き始めました。

3年目(1999年)の時に妊娠、出産をしたのですが、まだ産休・育休の制度が整っていない時代でしたので、子どもを産んでから3カ月で復職して、1年たった時にはフルタイムで働きました。ただ、母に子どもを預けっぱなしで、成長を見守れていないなという葛藤はずっとあって、子どもが幼稚園に入園したのをきっかけに、病院と交渉して、当直を免除してもらったり、重症の患者さんの担当ではなく、日中の外来と検査入院にシフトさせてもらったりと、しばらくは子育てに重心を置かせてもらいました。­­

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次の契機は、2003年に起きた山陽新幹線の運転士による居眠り事故をきっかけに睡眠時無呼吸症候群(SAS)がメディアにも取り上げられるようになり、病院の事務長からSASを専門にしてみないかという打診を受けたことでした。

いちから検査や治療法を学び、日本睡眠学会の専門医を取りました。生活習慣や減量の指導、CPAP療法(経鼻的持続陽圧呼吸療法)の指導など、当時は専門医も少なく、多いときには月に200人ぐらいの患者さんを診ていました。

SASの専門医としてやりがいも感じながら、忙しく過ごしていた中、母の間質性肺炎が徐々に進行し、悪性リンパ腫も合併してしまいました。

抗がん剤の治療など頑張っていたのですが、入退院を繰り返し、2013年の春、いよいよ最期を迎えるときがきました。

当時、勤めていた病院に入院していたのですが、酸素や点滴、モニター管理は自分でもできるので、最期は自宅で過ごさせてあげたいと、家で看取ることにしました。医師としても家族としても母のため最期の一週間を自宅で迎えることができたことは、少しは母への恩返しになったのかなと思います。

ところが、亡くなってしまった後に、ぽっかり心に穴が開いて、ちょっと元気がなくなってしまったんですね。
「もともと母の病気がきっかけでこの道に進んだのに、私って何のために医師になったんだっけ?」という考えに陥ってしまい、今のキャリアを続けるか転職するかどうか迷う日々が続きました。

行政医師に転身したきっかけは?

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あれこれ考えながら母の死から2年が過ぎ、その間、睡眠時無呼吸症候群の外来患者数はものすごい勢いで増えていて、常に予約待ちの状態でした。今診ている患者さんたちを助けたいという気持ちはあったのですが、どれだけ頑張ったとしても、一人の医師が診られる患者数は限界があります。

対症療法よりも、病気をもとから止めないと駄目なんじゃないか、病気になる前に介入していかないと増え続けていくばかりで減らないんじゃないかと思いが募り始めました。
また、子どもが県外に出たこともあり、転職のタイミングとしてはいいタイミングが来たということも重なりました。

今までと同じことをするよりも、経験を活かしながら、新しく予防医療をやってみたいという思いが強くなり、そこで初めて公衆衛生の医師になる道を探し始めました。

とはいうものの、どうやって行政医師になるのかがわからなくて。宮崎県のホームページで行政医師の求人情報を見て、宮崎県庁に電話してみたところ、電話口の向こうがなんだか慌てふためいている様子で、まさか応募が来るとは思っていなかったみたいです(笑)。すぐに話を聞きに来てくださいと言われて、面談して、とんとん拍子に話が進んでいきました。

保健所の仕事って?

実は本当にお恥ずかしい話ですが、今まで一勤務医としての保健所との関わりは結核などの感染症の届出くらいで、保健所に入るまで、宮崎県と宮崎市の保健所、市町村の保健センターの違いもよくわかっていませんでした。

医師や医学生でも、保健所所長が医師であることを知らない人は意外といるんじゃないかと思います。

県の保健所は8つ(延岡、日向、高鍋、中央、都城、小林、日南、高千穂)あって、高鍋保健所は、西都市と児湯郡を管轄区域としています。保健所の仕事として、一般的には、健康づくりや感染症対策、母子保健などはイメージしやすいかと思うのですが、食品衛生、環境衛生など「これも保健所の仕事なの?」と、業務の幅広さに慣れるまで、最初の1年間は、毎日が驚きの連続でした。

保健所の仕事

健康づくりはもちろんのこと、精神保健、新型コロナウイルス感染症などの感染症の対応、食中毒、薬事、医療監視、動物愛護、地域医療構想や地域包括ケアシステムなど自治体や医師会と協議しながら進めていく事業もたくさんあります。あまり知られていない事でいうと、例えば、水質検査では薬剤師が海に入り、海水の調査を行っていますし、不法投棄、産業廃棄物などの監視、指導も行っています。

学生さんが実習に来ると、宮崎は特に鳥インフルエンザや口蹄疫の発生で大きな被害を受けている事があるのと、保健所の仕事として新鮮なのか、衛生環境分野としての食肉衛生検査所や食肉処理加工施設などの見学が一番印象に残るみたいです。保健所の仕事に興味を持ってもらえる機会は、私が学生だった頃よりは増えているように思います。

もちろん、私も学生時代に公衆衛生の授業は受けていたのですが、その時はまだ重要性に気が付いていませんでした。一般病院での臨床経験があると、より公衆衛生の必要性が身に染みてわかると思います。

保健所で働くということは、住民の命と健康を守るために、多岐にわたって活動できるところが最大のやりがいだと思います。現場の最前線で対応しながらも、5年後、10年後を見据えて事業構想を立てていく必要があります。臨床と違って、見えにくい、わかりにくい仕事ではありますが、今年度直面した豪雨災害と新型コロナウイルス感染症での健康危機管理において保健所が担う大きな役割が世間に広く知れ渡ることとなりました。

激動の日々を振り返って

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2020年7月、熊本豪雨で被害の大きかった水俣保健所に、DHEAT(災害時健康危機管理支援チーム)の一員として派遣されました。宮崎県では初めての派遣でしたので、その責任を背負いつつ、とにかく被災地に寄り添い、ニーズにあった支援をしようと思い、出発しました。

被災地支援の場合、DMAT(災害派遣医療チーム)や日赤の医療チームがすぐに入って、救命活動に当たります。

同時に避難している方々の健康状態の調査や管理、避難所の衛生状態などが保健センターや保健所の業務になります。被災地の現場スタッフも当然被災しており、現場も混乱していますので、DHEATは被災都道府県の本庁や保健所のマネジメント機能を支援することが主な役割になります。

今回のDHEATの役割は大きく二つありました。まず、「芦水(いすい)地域災害保健医療調整本部」の機能を­水俣保健所に移行すること、そして、保健分野の課題を分析し、町役場と保健所と共に対応策の協議を進めることです。

活動の詳細は省きますが、初めてなりに一生懸命支援させていただきました。5日間の派遣の最後の日、保健医療調整本部の解散式を行いました。その際、水俣市の災害医療コーディネーターの先生が涙を流されながら、被災当初はどうなることかと思い見通しもつかなかったけど、こうやって外部支援を受けて滞りなく本部が保健所に移行でき、普通の生活に戻っていけることが本当にありがたいといわれたことが最も印象的でした。被災医療機関も保健所も明日もどうなるか分からない状況で、本当にぎりぎりの精神状態で業務をされていたんだなあと、­­被災者の気持ちに寄りそって活動することに大きな喜びを感じ、改めて保健所長としての使命感を強く感じさせてくれました。

支援を終えてその充実感とともに宮崎に帰ってきた翌々日の夕方、保健師から電話がかかってきました。

「所長、コロナ陽性が…出ました…」

休み返上で保健所に戻って、検査対応に当たっていたのですが、宮崎県初のクラスターとなり、感染者が急増して、高鍋保健所の職員だけで対応するのは、すぐに困難な状況になり、県本庁からはもちろん、他の保健所から所長をはじめ、保健師の応援、また厚生労働省のクラスター対策班やDMAT、感染症認定看護師のチームも応援に駆けつけてもらいました。

まさに災害レベル…ほんの2日前まで自分が支援に行っていたのに、今度は受援側になるという得がたい経験をしました。

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最初の段階では、どのくらい感染が拡がっているか予想がつかなかったので、濃厚接触者だけではなく、ある程度幅広く検査をする必要があると判断して、保健所に臨時検体採取所をつくり、かなりの数を検査しました。初動の段階で、広めに検査をしたことで、接待を伴う飲食店でクラスターが発生していることが早くに特定でき、約2週間で収束できたのかなと思います。

濃厚接触者の定義はあるのですが、クラスターが発生している場合や高齢者施設などでは検査対象者を基準よりも広めにとる必要があり、どこまで検査をするかというような現場での迅速な判断が求められました。

もし、対象者を漏らしてしまい、その方が気づかずに感染を拡げてしまったとしたらそれは私の責任ですし、地域の安全と安心が懸かっているので、非常に重圧を感じました。人生で一番判断力を求められた2週間で、ひと段落したときは、熊本の先生と同じように、ほっとして涙が出ましたね。

新型コロナウイルスに係る医療機関、保健所の業務過多や負担はメディアでも取り上げられているとおりですが、保健師をはじめ保健所職員の頑張りは地域を守るという使命感でしかありません。今でも電話が鳴り響いた当日の夜や検体採取所にあたった職員の様子、保健師の奮闘の日々を思い出すと胸が熱くなります。

完全に終息するのは、まだ先の話だと思いますが、保健所は、コロナとの共生、コロナ終息後における地域の健康のことも考えないといけません。問題は山積みで、自殺対策と高齢者対策、歯科保健など、今年度はほとんどの事業が延期、中止されていますし、住民の方も外出や活動を控えていることもありますので、その影響が今後どんどん出てくるだろうと考えています。

それを踏まえ、先を見据えた事業計画を立てていく必要があり、今後の保健所の抱える大きな課題となっています。

女性医師のキャリアデザイン

今は男性も子育てするようになってきましたが、女性は結婚、出産、子育てなどで一旦キャリアを休まざるを得ない時があるので、あまり先を見過ぎたり、タイミングを考え過ぎたりしてしまうと、キャリアデザインってできないんじゃないかと思います。女性医師の皆さんには自然な流れで、柔軟に自分のキャリアを目指していってほしいと思います。最初、私は呼吸器内科を専門にしたいと思って医局に入りましたが、子育てと両立させたいと思い、仕事と家庭のバランスを変えたり、睡眠時無呼吸症候群の専門にチャレンジしたりすることで呼吸器内科専門医以外の新たな道が開けました。

行政医師になったのは、病気の予防に興味を持ち始めたこと、家族の状況(母の死や子どもに手がかからなくなったこと)がきっかけでした。キャリアを考えて行動したというよりも、自分がその時にできることをやっていたら、キャリアが付いてきたという感じです。今後はDHEATの教育や人材育成にも携わりたいと思っています。そもそも医師自体がやりがいのある仕事ですので、どの分野にいっても、きっと後悔はないと思いますよ。

もしキャリアで迷われている方がいたら、「今自分ができることを一生懸命やっていたら自然と流れができるよ」って伝えたいですね。女性としても、医師としても、その時々で頑張る時と力を抜く時の緩急をつけると良いと思います。

上谷かおり氏と保健所のスタッフ達

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