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廣兼 民徳 氏

プロフィール

1985年、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)卒業。福岡徳州会病院で初期研修後、1986年、鹿児島大学附属病院救急部に入局。その後は名古屋掖済会病院外科・名古屋大学附属病院救急部・中京病院救急科・豊橋市民病院整形外科・同救命救急科などを経て1999年に宮崎大学医学部附属病院救急部に戻り、救急救命医への道一筋。2003年に宮崎善仁会病院にER型の救急総合診療部を立ち上げ、今に至る。

日本救急医学会専門医
ICLS九州幹事、JATEC認定インストラクター
JPTEC九州幹事
日本救急医学会九州地方会幹事

飄々とした物腰と柔和な雰囲気を併せ持つ廣兼医師。日本の救急医療の黎明期から、すべてを受け入れる救急医として立つことを目指し、自らのキャリアを工夫して、宮崎善仁会病院でER型の救急総合診療部を立ち上げた。その物語を伺いました。

医師になろうと思ったきっかけは?

きっかけを語る廣兼医師

子どもの頃は、プラモデルが好き、ものづくりが好きで、家が建築業をやっていたので、そのまま建築の道に進むだろうと自分でも思っていました。

中学生で剣道を始め、高校1年生の合宿で椎間板ヘルニアを発症、足がしびれて1ヶ月ほど動けなくなったんですね。入院待ちをしている段階でだんだんとしびれがとれてきて、手術まではしなかったのですが、スポーツはあきらめざるを得なくなりました。その時初めて病というものと向き合って、「どうやってこの病気直すんだろう」と自分で本を調べたりしてました。その時はまだ医師になろうという明確な意志はなかったのですが、今思えば、医療に興味を持ち始めたきっかけだったのかもしれません。それから、高校3年の文化祭で、黒澤明の映画『赤ひげ』を観て、いたく感動しましてね、「自分にはこの道しかない」と、医師になろうという信念を持ちました。

医学生時代は、基本的には構造が好きなので、解剖学講座に入り浸ったりした時期もあったのですが、研究職にはあまり興味が湧かず、皮膚科と整形外科にも興味がありつつ、進む先を何科にするかも決まらなかったんです。やはり総合的な仕事をしてみたい、患者さんと向き合う医師になりたいと思っていました。それこそ、赤ひげ先生のような。

救急医療には学生の頃から興味がありました。やはり総合的な仕事をやっているというのが救急医であり、目の前にいる人の命を救うには、とりあえず救急の知識がないと、という思いは、ずっと持っていました。その頃、同級生の3人で、日本医科大学の特殊救急のセンターに見学に行ったのですが、東京の救急はあまりにも特殊すぎて、救急車で運ばれてくるのが多発外傷だったり、ものすごく重症度が高かったり、そう滅多に診ることはないだろうという患者さんが多く、驚きました。人口が多いですから、そういう患者さんだけを受け入れる救急センターというのも必要なわけです。ただ、僕の目指す医師像とは少しかけ離れた世界でしたので、やはり総合診療ができる、風邪や腹痛の患者さんでも診るというような環境で仕事をしたいという思いを強くしました。

どんな研修医時代でしたか?

笑顔で語る廣兼医師

卒業後は、まず総合的な診療をしたいと思っていて福岡徳州会病院で研修を受けました。もちろん今のような臨床研修制度はなく、研修医3人で回してましたから、当直当直の連続でひたすら眠い。最大36時間連続勤務の後、倒れこんで眠り、また翌日朝から勤務、みたいな時代で、10人いれば2人ぐらいはドロップアウトするんじゃないかなというのも道理です。

 総合的な診療ができた上で、スペシャリストとして、皮膚科なり外科なりの専門を持とうと、そういう風に自分のキャリアを考えていましたが、鹿児島大学附属病院に救急部ができた時、研修医時代の一つ上の先輩に誘われて、そのまま入局。本当は顔を見せに行っただけだったんですけどね(笑)。

昔の救急は、特殊救急がメインだったんです。今のようにプライマリケアまでやるERではなく、重篤なエマージェンシーに対応するところが救急部でした。その救急部に2年ぐらいいたのですが、「しまった。」と思いましたね、あまりにも特殊すぎて。熱傷の患者さんの全身ケアなど、勉強になることは多々ありましたが、少なくともここではジェネラリストにはなれない。

そこでまずは一般外科を覚えるために名古屋掖済会病院に移りました。救命救急センターもありましたので、外傷もいろいろな症例も診れるだろうと思っていたのですが、実際は自分の腹部外科の勉強で精一杯でした。初期研修から、救急の研修、次いで外科、と研修ばかりです。腹部外科というと、普通は内臓の癌の手術が主なのですが、とくに緊急性の高い腹部外傷の主治医をさせてもらっていました。多発外傷の患者さんには、脳外科や整形外科の先生たちの意見をもらいながら、治療に当たっていました。「救急をやりたくて外科に来ている」と周りにも宣言していましたので、自然とそういう仕事を任せてもらえるようになりました。

救急できるところ、どこへでも?

その後、名古屋大学医学部附属病院の救急部へ行ったのですが、すぐに閉鎖、同じく名古屋の中京病院の熱傷センターを1年ほどお手伝いしていたところ、豊橋市民病院に救命救急センターができるので、スタッフの一人として来てくれという話が来ました。当時はまだ「救急」という形が確立していませんでしたので、場所が違えば、方法も違うという状態でした。北米型のERが良いといわれだしたのも、新医師臨床研修制度が始まってからです。それまでは沖縄県立中部病院をはじめとするごく一部の病院しかERは導入してなかったですから。

豊橋市民病院では、3年間ほど整形外科に入局し学びました。事故だと、やはり手足で自分の身を守るので、四肢外傷も多いんですよ。もともと外傷学をやりたくて、欧米だとトラウマジストといって10年ぐらいで外傷の専門医になれるのですが、日本だとその制度がなくて、自分でいろいろな外科系を回ることにしたんです。9年目の医師で、まだ研修医(笑)。

研修医生活も12年目を数え、ようやく豊橋市民病院の救命救急センターを任されることになりました。ただ、そこでは、救急を学べる病院も、先輩もいませんでしたから、自分で研究するしかありません。全国の救急病院を見に行って、沖縄県立中部病院のスタイルが良いな、と。特殊救急からは少し離れて、救急外来に歩いてくる患者さんも対象に入れましょう、という発想にして、ようやく望んでいた救急医療ができるようになったのです。初めは難しいといわれていましたが、徐々に評判も広まり、運営も順調でした。

その頃、大阪大学に籍を置いていました。たまたま宮崎大学の寺井先生が、大阪大学に「宮崎で救急をやれる医師はいないか」と照会したようで、声をかけていただきました。もう豊橋に7年いて、骨を埋めるつもりでしたし、大学病院での生活にも全然興味が湧かなかったのですが、折しも大学の独立行政法人化が始まったこで、大学病院も臨床をしないといけないという機運もあり、3年間のうちに臨床ができなかったら辞めます、という条件でお受けしました。しかし結局、独立行政法人化も数年後の話となり、宮崎大学を去ることにしました。

大学を辞めて、次はどこに?

ER救急入口前に立つ廣兼医師

実は私がいなくなって2年で豊橋市民病院の救急部が閉鎖されていて、戻ってきてくれという声がありました。(※現在は、ERとICUを併設して1次から3次まで受け入れる地域唯一の救命救急センターとなっている。)

ところが、同級生たちから、善仁会という病院が救急をやると言っているという情報が入り、立ち上げから何からやってくれと。民間病院でどこまで救急医療ができるか挑戦してみたい気持ちに駆られ、まあ、同級生も多いからみんな協力してくれるだろうという目論見もあり、3年ぐらいは宮崎でやってみようというつもりで引き受け、今に至るというわけです。

宮崎の救急医療体制の変化と救急医の育成について

今年4月から、大学病院に救命救急センターが設立されました。3次救急、特殊救急ですので、重症の患者さんは、始めから引き取ってもらっていて、こちらに運ばれることは少なくなり、役割分担ができています。

僕がここで初期研修を受入れ始めた理由に、研修医の先生方にプライマリケアを学んでほしいという思いがあります。風邪ひきや腹痛や頭痛、それら症状の鑑別もできない特殊救急ばかりやっていても、良い医師にならないんじゃないか。市中のいろんな患者さんが来る環境として初期研修を受け入れています。協力型なので3ヶ月間と短いのですが、これが、1年とか長期の研修ができるようになると、より一層成長してもらえるのではないかとも考えています。また、研修においては、大学に行って臨床解剖実習を実施しています。そこでは、人形ではなく、献体で救急処置をシミュレートするという実習を、大学と連携して研究とまではいかないまでもきちんと学術的な学習も行っているというのも特長です。人形でなく、献体で実習すれば手技に緊迫感が出てやはり大きく違いますね。

救急医を目指す人へのメッセージ オールラウンドプレイヤーになってもらいたいです。

内科・外科・小児科・産婦人科、それぞれの救急の病態が理解できて、応急処置がとれること。あくまでも救急医はファーストエイドとトリアージ。総合医が診ていい病態なのか、専門医に渡すべきものなのかを鑑別できるようになることが必要です。

アメリカの救急はプライマリケアを掘り下げていて、特殊な処置が必要な場合はスペシャリストに任せます。今、日本もその方向に進んでいっていると思います。宮崎善仁会病院の目指す救急というのは、特殊な救急ではなくて、一般救急。大学病院、医師会病院や県病院と連携し、すべての患者さんを受け入れるという心構えで救急医を目指してください。

廣兼医師

研修医との症例検討会
研修医との症例検討会1

宮崎善仁会病院では、年間12人から20人程度(1年目の研修医は3ヶ月ごとに3人ずつ)の研修医を受け入れている。特徴的な取り組みとして、救急部の指導医が中心となり、毎週、症例検討会を開催。研修医が対処した鑑別の失敗事例や、アプローチの分析など、こと細かく報告をしながら、仮説と検証を繰り返していく。研修医にとってはシビアでありながらも、前向きで明るい雰囲気に溢れている検討会となっている。

研修医との症例検討会2研修医との症例検討会3

最後に先生にとっての医療とは?

地域の安全、安心のために医療はある 医療法人社団善仁会 宮崎善仁会病院 副院長・救急総合診療部部長 廣兼 民徳

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宮崎県地域医療支援機構(事務局:宮崎県医療政策課)
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