落合 秀信/宮崎市出身
- 1988年 宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)卒業
- 宮崎医科大学附属病院研修医
- 1989年 都城市郡医師会病院に入職
- 以降、徳田脳神経外科、医師会立西都救急病院、県立宮崎病院 医長、宮崎医科大学附属病院助手、米国Duke大学医学部
Senior research associate 等を歴任 - 2010年 県立宮崎病院 救命救急センター長
- 2012年 宮崎大学医学部附属病院 救命救急センター長
専門:脳神経外科・救急医療
落合 秀信/宮崎市出身
- 1988年 宮崎医科大学(現宮崎大学医学部)卒業
- 宮崎医科大学附属病院研修医
- 1989年 都城市郡医師会病院に入職
- 以降、徳田脳神経外科、医師会立西都救急病院、県立宮崎病院医長、宮崎医科大学附属病院助手、米国Duke大学医学部 Senior research associate 等を歴任
- 2010年 県立宮崎病院 救命救急センター長
- 2012年 宮崎大学医学部附属病院 救命救急センター長
専門:脳神経外科・救急医療
現在、救急科の医師は11人、2交代制で回しています。それ以外にも、整形外科と外科からセンターに出向している医師が7人いて、緊急手術などを担当しています。看護師は48人で、病床が20床あるので、4:1看護のためには、この定員は必要です。まだ、専属の放射線技師はいないものの、救急係を設置して、急患を最優先で対応してくれる体制が整っています。
夕暮れ時から夜間の救急要請も多いため、ドクターヘリの飛べない時間帯や悪天候時の補完として、2014年にドクターカーを導入しました。ドクターヘリの年間出動数は400から500回、ドクターカーも年間100回以上の出動実績があります。
ドクターヘリの運航をきっかけに、屋上や敷地内にヘリポートのある病院が増えました。現在は、県立延岡病院・美郷町西郷病院・海老原総合病院・川南病院・小林市立病院・都城市郡医師会病院・メディカルシティ東部病院の7つです。ドクターヘリのランデブーポイントも増えています。2015年には、事故によって多くの重軽傷者が出た際に、宮崎駅前の路上に特別着陸という事例もありました。
特に印象に残っているのが、ある先生の言葉で「ドクターヘリが入ってよかった。今まではいったん救急患者を受け入れたら、自分のところで全て処置しなくてはいけなかった。今は困ったらドクターヘリが来てくれる。自分たちの救急も間口が広がった。」とおっしゃってくださったのが、うれしかったですね。
県全体のことを考えると、大学だけが充実していてもあまり意味がありません。センターで多くの救急医を育成し、県内各地の救急医療機関へ派遣することもミッションの一つとしています。現在、常勤医7人、非常勤医11人をセンターから派遣しています。この救急医たちは、救急医療の専門家としての活動はもちろん、救命救急センターと各医療機関とをつなぐ重要なキーパーソンとなっています。
県北は県立延岡病院、県央は県立宮崎病院、県西は都城市郡医師会病院、3つの二次医療圏の拠点病院に、現役バリバリの救急医を派遣して、連携強化を図りました。
ドクターヘリ稼働1年目は、ほとんど全ての患者さんを大学に搬送していましたが、今では6割にまで減りました。フライトドクターのトリアージ精度が信頼を得ていて、近隣の病院で処置が可能という判断があれば、今まで外傷患者を受け入れてくれなかった病院も、少しずつ受け入れてくれるようになってきたんです! 一方で、いざとなったらドクターヘリを呼んでいいんだと、急患の受け入れに前向きな施設が増えてきたのも、県内の救急医療の活性化につながっていると感じています。
熊本地震が発生した日、私は北海道で学会に出席する予定で、新千歳空港に降りて電車で札幌に向かっているときに、厚生労働省のDMAT事務局から電話がかかってきました。札幌に着いたのが夜の12時近くだったため、翌日朝の5時から宮崎空港にとんぼ返りしました。
DMATは医師や看護師の他に、技師や薬剤師などのメディカルスタッフで構成されています。厚生労働省の研修と試験を受け、合格した人がDMAT隊員として認定されます。災害時には、県知事からの要請を受け、病院長の許可で出動します。
4月14日に第1隊として3チームが熊本に入りました。宮崎大学、県立宮崎病院、都城市郡医師会病院のDMATです。震源地となった益城町での救護活動にめどが付いて、帰還の準備をしていたところに、16日の本震が起こりました。
熊本市民病院が倒壊する恐れがあり、被災した入院患者さんを宮崎の病院で大勢受け入れなければならないという可能性が出てきました。まずは、県内全ての災害拠点病院に連絡して、どれぐらいの患者さんを受け入れられるか調査しました。医師会とも、県内の病院で受け入れ可能な透析患者数を把握するなど、調整が続きました。
その一方で、被害の大きかった南阿蘇へDMATの第4隊を派遣しました。センターでは、通常の救急と並行して、被災者の受け入れも行っていたので、勤務調整も難航していたのですが、臨床研修2年目の医師2人が手を挙げてくれました。DMAT資格はなかったので、補助員という形で派遣したところ、現地でかなり頑張ってくれたようです。帰還後もその熱は冷めず、今年から救急科に入ってくれることになったのも、ありがたかったですね。
フライトドクターとフライトナースは、運航スタッフとともに、その日の事案の振り返りを行っています。外傷診療のJATEC[1]やJPTEC[2]、脳卒中診療に必要なPSLS[3]などの研修会も定期的に実施しています。全国的に珍しいのが、病院前救急診療のシミュレーション室です。救急車内の狭い限られたスペースでの処置の訓練をするために、廃車になった救急車を消防から譲り受け、中が見えるようにカットモデルにしました。
研修医の教育方針は「地域で最強の救急医を育てる」を掲げています。地域に必要とされるのは、救急の総合医です。一般的な診療ができて、外傷を診て、集中治療もでき、どこの病院でも即戦力になれるオールラウンダーを育てたい。年間を通して、臨床研修医は常時2~3人、救急専攻医も毎年2~3人が入ってきていますので、活気がありますね。
宮崎県は4分の3が森林地帯ですので、ちょっと特殊な訓練も行っています。救急車が通れない、ドクターヘリも降りられない山間部での事故にも対応できるように、防災救急航空センターとの合同訓練を実施しています。フライトドクターが降下訓練を受けることで、防災ヘリから救助隊と一緒に降りて、患者さんを引き上げ可能な状態にする、という処置もできるようになりました。
また、宮崎市消防局とは、ワークステーション方式の研修を行いました。センターに救急隊が3人1組で来て、指導医が救急車の出動時に同乗して救急救命士の指導に当たります。外傷ならトラウマバイパスとか、脳卒中だとストロークバイパスなど、危険な状態を把握できれば、かかりつけ医を飛び越えて、直接三次救急に運んだ方が良いという判断もしやすくなります。救える命を増やしたいという思いは、皆同じです。
私たちのミッションは、とにかく多くの救急医を育成して、拠点病院を手厚くするということが最優先です。そこから人的なネットワークを構築し、継続可能なシステムにしていくため、救急に興味を持って、携わってくれる人をどのように集めるかが目下の課題です。
現在は、救急診療において、各診療科の強力なサポートをいただいています。将来的には、ある程度のところまで専門的な治療をできるような医師を確保して、半独立型の救命救急センターにするという構想を持っています。
設立から5年を経て、救命救急センターとしての体制は安定してきました。これからは、人材育成に注力して救急医療全体を底上げしながら、救急医療の先進県にしていきたい。救急の魅力を多くの若いドクターに伝えていきたいと思っています。
当センターでは、救急専攻医が主役になれるような指導とサポートに力を入れています。救急は回転も速いし、勝負も早い、短時間にいろんな要求をされますが、劇的に回復することもあります。患者さんが助かったときの達成感や爽快感、満足感が感じられる環境がここにはあります。
[1]:Japan Advanced Trauma Evaluation and Careの略
[2]:Japan Prehospital Trauma Evaluation and Careの略
[3]:Prehospital Stroke Life Supportの略