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金丸 吉昌 氏

PROFILE

宮崎市出身、1981年宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)卒業。
宮崎医科大学附属病院、社会保険宮崎江南病院、県立宮崎病院、三股町国民健康保険病院等に勤務、1992年から西郷村国民健康保険病院(現・美郷町国民健康保険西郷病院)院長として就任。以来、西郷村の健康管理センター所長、生涯健康課長、医療管理室長の兼務を経て、西郷病院・北郷診療所・南郷診療所の総院長として臨床の現場に立ち続けながらも、地域包括医療局の長として、議会やメディアをも市民大応援団として巻き込み、地域医療を展開。

歩きながら患者さんとスタッフに笑顔で声を掛ける―。
ここでは患者さんとその家族、看護師をはじめとする医療スタッフや
職員たちが、強い絆で結ばれています。
一人の医師が美郷町に移り住み20年。地域に暮らし、住民の絶大な信頼を
得て、地域包括医療・ケアを実現してきた、その物語をお聞きしました。

地域医療へのターニングポイント

金丸 吉昌 写真1

昔は、へき地で働く医師といえば外科系の医師が中心でした。突発的な事故や怪我など緊急事態に対処する必要があり、その場である程度の手術を含めて治療できることが当たり前でした。ところが、20年ほど前から、いわゆる生活習慣病が次第に増加し、診療も専門化・細分化され、医療に対するニーズも細かくなってきました。それは人口の少ない、高齢化が進んでいるへき地でも同様でした。生活習慣の改善や、暮らしの中での継続的な治療はもちろん、高度なそして専門的な医療も求められるようになってきました。そのため最近では、特定の診療科に限らず、総合医として臓器別専門医への橋渡しの役割も含めた活躍が期待されるようになってきています。

もともと私は、無医村で働く医師を目指して医大に進みました。ただ、その当時、卒業してすぐにそんな場所で勤務できるような仕組みはなく、もちろんそれだけの力があるわけでもなかったので、結果として卒業後の5、6年間は、大学・県立宮崎病院・社会保険宮崎江南病院で先輩の先生方にご指導いただき、そこで内科医として、たくさんの患者さんと出会い、一般的な身近な病気の多くを学ぶことになりました。お陰でいわゆる今でいう「総合医」的な診療のイメージが出来るようになっていました。

当時、大学の医局では、その関連病院も含め良き先輩にも恵まれ、臨床能力を上げるのに素晴らしい環境がたくさん揃っていました。育てていただいたお礼もできないまま、医局を辞めるという気持ちもありませんでしたので、ならばご恩返しのつもりで、と自ら手を挙げて、その時、希望する医師が少なかった三股町立病院に行くことにしました。そこで初めて往診をスタートしました。まさに医療は暮らしの中にあるということを実感しました。今思えば医療の原風景を体験できたのだと思っています。

ただ、いずれにしても、そこは医局のローテーションの中での派遣でしたので、どこか固定の場所で地域医療を更に深めたい思いもあり、その病院を辞めることを決めました。スタッフや患者さんや住民から嘆願署名もいただき、大変申し訳ない気持ちもありましたが、縁あって鹿児島の大隅に渡ることになりました。

そこで勤務すること3年とちょっと。思う存分に、一生懸命、理想の地域医療に取り組んでいました。もちろん私としては、宮崎で地域医療に取り組める病院が見つかればよかったのですが、当時は、どこの村の医師が不足しているという情報も探しようがなくて―。実は西郷村が医師を探している、ということは後から知りました。西郷村をはじめ、その界隈は熊本大学と宮崎医科大学からのローテーションや宮崎県からの自治医大卒医師の派遣で、病院を運営していました。基本的には1年間の派遣でしたが、中には3か月、6か月という短期間の派遣もあったので、地元としては、なんとしても定着医が欲しいという思いがあり、村を挙げて医師探しをしていたらしいのです。

ある日、当時の西郷病院の事務長さんがぽつんと大隅に現れて、「西郷村から来ました。先生、来てもらえないだろうか」と。

宮崎医科大学から西郷村に派遣されていた医師が病院を去るにあたり、私のことを推薦してくれたとのことで、ただ、まだ鹿児島に来て1年目でしたから、それは動けないと答えると、「待ちます」といわれて、足しげく通っていただき、結局最初に出会ったときから2年半ぐらいが経過していました。そのうち村長も来られて、直接お話をいただきました。その時の私は30代半ばです。心はすでに大方決まっていましたが、診療するだけでは西郷村に行きたくない、出来れば予防的な活動もしたい、と話していく中で、村長も全く同じ思いであると言っていただいて、不安がなくなり、平成4年の1月1日に西郷村に赴任となりました。

医師が医師を探す!体制づくりと新病院建設

美郷町 風景1

赴任した当時、医師は2人体制でのスタートでした。ところが、1年ほど経って相方の医師がお辞めになり、一人で切り盛りすることになりました。

さすがにそれは思った以上にきつかったですね。診療所ではなく病院ですから、昼も夜も病院を離れることができませんでした。隣村の医師に1日診療を頼んで、大学に「とにかく医師を派遣してください」と交渉に行ったことも何度か。直談判を繰り返し、4か月かかってようやく2人体制に戻すことができました(今だったらこんな短期間での医師確保は厳しいと思いますが)。さらに3人体制にして、検査設備も充実させていきたいという構想を持っていました。

防災ヘリ

最初は外科の医局から、それから放射線科からも医師が来てくれることになりましたのでCT装置を導入。現在の診療体制の基礎を築き、平成14年には、待望の新病院が完成しました。基本コンセプトは、「明るく、あたたかく、やさしい」。新たに透析治療も始めました。もっともこれは簡単な話ではなく、ゼロからのスタートでしたので、日向市の民間医療機関の全面的な支援がなければ実現できないものでした。大変な感謝でした。

また、緊急時の備えとして、屋上にヘリポートを設置。当時県内には、病院の屋上ヘリポートはどこにもありませんでしたので、大変苦労して設置したことを覚えています。県立延岡病院まで救急車で1時間かかるところを、わずか10分で飛べます。この4月から宮崎県でもドクターヘリが本格導入されます。すでに何度か屋上ヘリポートを利用して県の防災ヘリでの患者搬送を経験していますが、この病院がドクターヘリのランデブーポイントのひとつになることで、少しでも救える命が増えれば、それは大変ありがたいことです。

医療による地域づくり 市民大応援団の醸成

地域医療学講座

地域医療の理想(夢)を実現していくために、赴任後まもなく始めたのが、保健・医療・福祉の統合でした。当時の西郷村長の英断により、健康管理センター長、在宅介護支援センター長を兼務でき、行政と一体となって地域包括医療・ケアを展開できる仕組みをつくりました。またそれぞれの施設の人事交流を日常的に行うことでお互いの連携を強固にし、人と人とがつながることでサービスの連携が取れるようになっていきました。

そもそも、たくさんの医師やスタッフがいる環境ではないので、総合医として自分の技量を上げていくのと同時に、医療チームとしてひとつになり、また周りの関係機関からの協力を得ていくことが大きな力となります。地域住民を中心として、保健・医療・介護・福祉各分野の専門家が連携。ここに市民・議会・首長・メディアなど、みんなが参加してこそ、期待される地域包括医療が実現していけるのです。一人ひとりが、医療の不確実性にも理解を深めて、医療に携わる人すべてを応援してほしい、そんな思いで『市民大応援団』と名づけました。県北・延岡市を先駆けとして、宮崎県内でも少しずつこれらの姿が見えてきました。

もともと西郷村の時代から、平成5年より毎年、公民館単位で健康座談会を重ねて色々な啓発活動を実施してきました。合併して美郷町としては改めて平成22年の8月から12月にかけて、美郷町内22地区の公民館で住民を集めて座談会を開催。膝詰めで地域医療の現状を説明し、その結果、議員発議で「美郷町の地域医療を守る条例」が誕生しました。延岡市に続いて県内2例目となるこの条例には、町(行政)・町民・医療施設が一体となって地域医療を守ることなどを基本理念に掲げ、それぞれの役割もしっかりと明記されています。今後、この条例を合言葉に市民大応援団の輪が広がっていくことを期待しています。

翔け!総合医 つなごう!地域医療の絆 未来を見据えた地域医療塾

地域医療塾
そば打ち

地域医療には、継続ということも大事だと思っています。赴任した当時から最低10年間は続けて従事したい、というのが自分の思いの中にありました。とはいえ、いつまでも走り続けられるわけではありません。

そんな時に思い出すのは先輩の一言です。同僚たちからは「なんで好んで今、へき地に?」と言われ、というのも当時は、無医村や離島へは、定年になってからでも行ける場所だろうという考えも多かったからです。そんな風潮の中で、私はいわばアウトサイダー的な存在だったのかもしれません。

その時、直接の先輩で「行って来い」と言ってくれる人がいて。しかも「行くのは簡単だ」っていうわけです。その意図は「辞めるのが大変だ、辞める時に辞め方が悪いと行かんほうがいい。これだけは肝に銘じとけ。辞め方によっては地域ごと壊れてしまう。それだったら最初から夢を見させるな。人を育て、仕組みをつくり、そこからさらに発展するようにして辞めてこい。俺は待ってる。」と言うんです。その先輩は鹿児島で開業したので、そこで待っていると言ってもらったわけです。残念ですが、その先輩は、今はもう亡くなられ、その言葉は遺言となり、忘れられない言葉となって私の中に残っています。

訪問診療

地域医療の後進を育てる拠点にしようと、医療の原風景の伝承の場「地域医療塾」に取り組みはじめました。病院で受け入れている研修医だけではなく、医学生も交え、往診や地域住民との交流や、福祉施設での研修、時にはそば打ち体験も研修プログラムに入れました。美郷町の住民は、医師もスタッフも、やってくる学生も、みんな仲間だと思っているのです。そこは、住民とのコミュニケーションの場であり、また医学教育の場であるだけでなく、医療の原風景の体験の場でもある。若いうちに人と人との絆、地域の温かさを実感することで幅と広がりを持った医師として花開いてほしい、そんな想いを込めています。

そして彼らが、たとえ1か月という短い期間であっても、その温かさと魅力を感じて原体験として覚えていてくれれば、誰かひとりでもこの地に帰ってきてくれるかもしれない、あるいはどこか医師が必要な他の地域で活躍してくれるかもしれない。後期研修医として1年間の勤務があれば、なおさら、その実感を深めることができる。もっと言えば、全国のへき地・離島には総合医を育てる最高の場があるとさえ思います。それを言葉ではなく、医療塾の体験の中で伝えていくのが、期待される総合医を育てることにつながると考えています。

最後に先生にとっての医療とは?

一人ひとりの物語を大切に寄り添う。

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宮崎県地域医療支援機構(事務局:宮崎県医療政策課)
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