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黒木 重三郎 氏

地域に根ざした医療活動の実践

宮崎市から車でおよそ2時間半、山合い深くの諸塚診療所では2人の医師が働いている。その1人が黒木重三郎医師、83歳。福岡で開業していた病院を閉じ、生まれ故郷の諸塚村へ戻り、以来17年。自分の思い描く理想の医療を実現すべく、人口1800人の村の医療と訪問診療を担っている。

95%が森林の諸塚村。村産材の杉を使った木造平屋建ての診療所が平成24年4月に新しく開設。木の香り芳しく、病室や廊下もゆったりと、患者が養生できる温もりのある環境づくりをコンセプトに設計されている。バルコニーからの眺望は美しく、眼下には渓谷の流れ、遠くには癒しの森が広がっている。病床数は19床。救急処置室も備わった診療所として地域住民の生活に根ざした医療施設に生まれ変わった。

プロフィール

黒木医師 プロフィール写真

  • 1930年 宮崎県東臼杵郡諸塚村生まれ
  • 1944年 大分陸軍少年飛行兵学校に入学、翌年終戦
  • 1956年 九州大学医学部卒業
  • 1967年 黒木外科病院開設
  • 1996年 諸塚村国民健康保険病院副院長就任

地域医療の原風景

地域医療の原風景1

「少年兵として死を覚悟していた。拾った命です。崇高な目標があったわけじゃないんです。」

黒木医師は自らが医師になった経緯を訥々と語る。終戦後の混乱期、農学校に入り獣医になろうと決心したものの新しい環境と勉学につまづき、いったんは生きる意味や希望を失っていた。一念発起して退学、背水の陣で医学部へと転進。「拾った命なら他人のために役立てよう」との思いだけで医師への道を歩み始める。

医学生時代に開業医の娘と学生結婚をし、医師への道は順風満帆に進んでいるようにも思えたが、医学部3年生の冬休み、義父が突然脳卒中で倒れ、帰らぬ人となる。何百万人と死んだ戦争の裏で、実際に自分が初めて見た人間の死は、自らの指針とし、最も頼りにしていた人物のものであった。それがまた、悲しみと絶望をいっそう深めることになった。

地域医療の原風景2

山村の医師であった義父は、朝から深夜まで働き、時には遠くの集落まで徒歩で診療に通っていた姿を間近に見ていた。それが黒木医師の原風景となり、今でも地域医療に携わる医師としての礎となっている。

卒業後は九州大学第2外科の医局に入り、血管外科の研究室に所属。当時、医局員は無給だったが、家族を養わなければならないこともあった黒木医師は、医局からのアルバイトでどうにか食いつないでいた。福岡の八木病院に2年、広島の赤十字原爆病院や、船医として船にも乗っていた。

「あちこちの病院を回った経験が、ここに来ていろいろと役に立っています。血管の専門医になっていたら、単純な外科手術さえできない、へき地で役に立たない医師になっていたかもしれない。」

外傷治療などの整形手術はもとより、内科の処置や知識もないと成立しないのが今の地域医療の現場。もちろん手の届かない高度な手術の場合は大きな病院へ送らざるを得ないが、できる限りの治療をするのが、ここに医師がいる理由と語る。

開業医から勤務医への転身

診療所外観

医師になって10年、昭和42年に外科の病院を開業する。実は当時、諸塚村から医師をやってくれないかという打診があったという。村の議員や兄が説得に訪れ、村に医師がいないという。すでに莫大な借金をして病院を建設中だったこともあり、やむなく断ったが、開業医生活の28年間、ずっと心の奥底に引っ掛かっていた。自分が医師として、誰のために何をしたいのか。自らの理想の医療が追求できるという場所を見つけることも医師の生き方のひとつなのかもしれないと考え始めた。

「もともと60歳になったら開業医は辞めようと思っていたんです。病院も売って、勤務医としての働き口を探していたところに、再び諸塚村に医師がいなくなるという話を聞いて、生まれ育った村に恩返しをする機会が巡ってきた、そう思ったんです。」

諸塚村へ来て、医療に対する気持ちや考え方が全く変わったという黒木医師。

「開業医だった頃は、病院の経営のことも考えなければならなかった。ここでは患者さんのことに専念できるというのが何よりも嬉しいんです。」

折しも、在宅医療や訪問診療など第3の医療といわれる形態が求められるようになった時代になっていた。開業医時代に始めてはいたが、ここ諸塚で、へき地に必要とされる在宅医療を実現させようというのは自然な流れだった。

在宅医療の実現への仕組みづくり

在宅医療の実現への仕組みづくり1

「諸塚で生まれ、生活をし、自分の家で看取られる。」

黒木医師はそういうシステムを作りたいと、精力的に地域を回り、公民館などで講演を行っている。

へき地の病院はどこも外来の患者であふれ、病院の入院病棟はすでに満床、少し症状の緩和した患者を受け入れている福祉施設も入所が数カ月待ちという状況がある。

医療と福祉の連携だけでは間に合わない、患者とその家族の協力が解決の鍵を握っている。

戦前はほとんどが自分の家で亡くなっていたが、今や諸塚村でも、自宅で看取られる人はわずかに3%しかいない。在宅医療の制度を利用している患者でも15%。時代の流れか、悪くなったらすぐ病院に施設に、という考え方が浸透してしまって、在宅医療を勧めてみても、家族が反対するという。確かに一緒に生活をする家族の負担は大きく、なかなか実現が難しいと苦渋の表情も浮かべる。

「在宅医療の方が経済的にも負担は少ないのですが、家族の理解がないとできないんです。」

その仕組みづくりの一環として、初期の入院の段階から、治療と退院を見越して、患者の家族と在宅医療のトレーニングを始めるのが肝要だと考えているが、そこに立ちはだかるのが、やはりマンパワーの問題。在宅医療に専念したいが、他に医師がいない現状では、日常の診療が精いっぱい、月の半分は当直も担当しているとなると、体力的な負担も大きい。

昨年の夏には、腹膜炎で1カ月ほど入院したが、免疫力が低下していたため快復に時間がかかったという。秋には復職し、3月まで近隣の病院のサポートを受けて乗り切ったが、外来の患者さんへの対応だけで、夕方までお昼も取れないこともままあった。

今年から、外科外来では1時間4〜5人予約診療制を導入し、一日の外来患者は30人、多いときでも50人ぐらいに軽減されたという。

病床は19床。たいてい半分から4分の3程度は埋まっていて、ほとんどが高齢者で、動くこともできない患者も多い。いずれは帰宅可能な患者を在宅医療へと導こうとしているが、患者本人が家族に迷惑をかけたくないという希望もあり、都市部の病院や福祉施設へ転出していくことが多い現状を憂いている。

在宅医療の実現への仕組みづくり2

それでもなお続く理想の医療の追求

それでもなお続く理想の医療の追求について語る黒木先生

理学療法を取り入れたことでリハビリテーション患者も増加。週に一度、特別養護老人ホームの往診も行っている。午前中は外来診療、午後は病棟回診と訪問診療、職場・乳幼児・学校健診、予防接種を中心に行い、救急患者も受け入れている。技師がいないため、検査(内視鏡検査・超音波検査など)は医師が担当するが、人間ドックも受診可能となっている。

諸塚診療所のもう一人の内科医である鶴田医師も、60歳を超えてもなお地域医療への思いを強くし、福岡から働きに来ている。へき地でこそ必要な医療の在り様があり、第2第3の医師のキャリアとして、自らの理想の医療を実現するフィールドとして、また、人生の集大成として医療活動を全うするという生き方を、ここでは追求することができる。

「一切の欲を持たずに、ただひたすらに理想の医療を追い求める。年は取ったけれど、ここにはやりがいという大きな糧があるんです。」

黒木医師の挑戦はまだまだ続く。

最後に先生にとっての医療とは?

心を開いて病人を診ること 国民健康保険諸塚診療所 副所長 黒木 重三郎

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