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吉原 博幸 氏

不思議!と感じる心を大切に。医療はサイエンス。何事にも素直に驚き、自分で仕組みを研究する。それ科学の原点で、成長につながります。

プロフィール

長崎県佐世保市生まれ、大阪大学基礎工学部合成化学科卒業。1974年、宮崎医科大学の第1期生として入学。卒業後は外科医として勤務しつつ、医療情報を兼任。
1995年に卒業生として初めての宮崎医科大学教授(医療情報部)。1998年、ハーバード大、MITの客員准教授を経て、2000年、熊本大学医学部教授、2003年から2013年まで京都大学医学部教授。一貫して電子カルテを地域、国レベルで相互接続するシステムを研究/構築。
2014年、宮崎大学医学部附属病院の病院長に就任。

宮崎大学医学部のストロングポイント

吉原院長1

宮崎大学医学部は、最もIT化の進んだ医学部のひとつで、大学内LANの導入は全国で一番早かったはずです。

1988年に医学情報室を開設し、非公式ではありますが、学生さんへの情報教育や、病院情報システムから得られる診療情報の研究利用、病院同士で診療データを共有するための共通規格などを研究していました。90年代は各病院でもオーダーエントリーシステムの導入が進みつつある時期で、患者さんの診療情報がデータベースに集約されているわけですから、大学内からは研究に使えないかとか、病院事務側からもマーケティングに使えないかという声もあり、その活用が注目され始めていました。

2001年当時開発した広域連携の仕組みは、今だに成長を続けています。
患者さんが自身のデータを見る事が出来、どの病院にも診療所にもデータを見てもらうことができ、自己管理や、病院側も正確な病歴の把握、多重投薬や検査のミスが防げ、診療資源の適正使用は、全体的な医療費の削減にもつながります。

宮崎医科大学で1995年に開設した医療情報部での成果を踏まえて、2000年に熊本大学でメールシステムもまだしっかりしていない環境から3年間で院内LANと電子カルテシステムを整え、その後、2003年に京都大学に移った時も、電子カルテが稼働していないゼロからの出発でした。

しばらく宮崎を離れていましたが、外から見た印象とそんなに大きく違わないですね。ひとつしかない大学病院として地域にとって必要とされていて、競争相手もいないため、一極集中でまとめやすいというところがあります。

一般的に大学は、行政や医師会とは必ずしもうまく行っていないケースが多いんですが、宮崎では、三位一体の協力体制が出来上がっているのが一番の驚きでした。

大学病院の救命救急体制

宮崎県医師会の協力で「宮崎大学救命救急センター逆搬送体制構築委員会」を設立しています。ある程度落ち着いた患者さんは、院内の共通病床や院外の後方連携病院への転院を積極的に勧めています。

ドクターヘリについてはまだ発展段階ですが、昨年の出動回数は500件を超えました。県民の認知度も高く、今後さらに出動も増えていくと思いますが、今の体制だと、一定の限界は来る、それも早いうちに来るだろうと予測しています。

大学病院としては、救急だけを肥大化させていくわけにはいかないので、後方支援体制がもっとも重要になると考えています。

研究と教育と臨床のバランス

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地方大学は財政的に厳しく、大きな研究成果を出さない限り外部資金が得られず、どうしても研究が沈滞する傾向があります。しかし歴史を振り返ると、宮崎大学医学部には、世界レベルの研究があるんです。松尾壽之先生の研究(生理活性ペプチドの単離・同定・機能解析に関する研究)などはノーベル賞クラスです。

宮崎大学としては、単に東大や京大と競争しようということではなくて、もっと地方大学に適した領域を狙っています。医療に関しては、希少症例や高度な手術ばかりを目指すよりは、一般的な病気をしっかり診療出来る体制を充実するのが重要だと思います。

軽症の外来も入院も多く、大学病院で診ている疾病を上手く地域で分担できれば、臨床研究にも力が注げるようになるとは思いますが、現状のように病床稼働率が95%と高い状況では、研究の余力と時間が持てないのが実状です。バランスが難しい。

教育面でも同様で、ゆとりを持たせるためには人を増やさなければならない。可能な限り、大学の定員枠と、病院収入の余剰金で人員を確保しています。補助的な臨床研究費も大学病院で独自に出すことにして、強化を図っているところです。

医師のキャリアと流動性

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宮崎県や大学病院での医師の確保ですが、宮崎大学医学部入学者のうち何割が臨床研修医として宮崎に残り、さらに後期で何人残るかという話になりがちですが、もう少し大きな視点で見てはどうでしょう。

研修場所として都会の病院に目が向きがちですが、初期の2年間は宮崎で研修しても、そう大きな違いはありません。宮崎に残っていただきたいのは山々ですが、若い人を一つのところに縛り付けるという考え方には無理があり、生涯を通じた医師としてのキャリアパスとして考えると、大病院でも、都会でも、へき地でもいろいろな経験をするべきだし、いつでも帰っておいでと送り出して、戻って活躍できる環境を作るのが大学の役目だと思っています。

一般的な病気の症例数と研修医の数を相対的に考えれば、都市部の大学病院よりは、地方の民間病院の方が症例経験を積みやすいということもあります。また、宮崎県内にも先端医療に取り組んでいて、症例数も多い病院もあるのですが、まずはそれを研修医に知ってもらう必要がありますね。

吉原院長4

京都大学を64才の定年で退官してから宮崎に来るまでの間、3か月だけですが滋賀県北部の余呉の診療所長として地域医療に携わりました。人口は約1万人、冬は豪雪地帯の厳しい環境です。

ここで感じたのは、医師として長期定住は難しいかもしれませんが、例えば、リタイヤした医師を期間限定で交替で派遣できれば、診療所を維持できますし、へき地医療を体験したい若い医師にとっても貴重な機会になるでしょう。へき地医療で重要なのは、専門医療の遠隔バックアップ体制です。

これは私の専門とする医療ITの仕組みが大いに役に立つと思います。

新臨床研修制度の為に、医局が弱体化して若い医師の医局離れが進み、大学からへき地への医師派遣が難しくなってしまいました。また、県外で働いていた医師が宮崎に戻ってこようとしても、戻る場所が見つけにくいという状況があります。出身の医局だったら、受け入れやすいということもあるのですが。

医師の生涯キャリアパスの中では、いくつかの節目があります。

例えば、県外で経験を積んだ40代くらいの医師が宮崎に帰ってきて活性化する、というようなキャリアパスモデルを作りたいと考えています。そのための一時的なポジションを大学で用意することが必要で、これは準備中です。

九州、あるいは日本全体でリクルート情報を共有して、医療資源の取り合いではなく、人材の流動化を起こして、戦略的に人材を確保していく事が必要ですね。

吉原院長5医学生へのメッセージ 不思議を感じる心を大切に。

私が駆け出しの頃は、外科だったこともあり、ひたすら手術の日々でした。
大変苦労はしましたが、いろいろな経験が出来て、今思えばラッキーでした。
当時、若い医師は大事にされていたという実感があります。

不思議!と感じる心を大切に。医療はサイエンス。
何事にも素直に驚き、自分でその仕組みを研究する。
それが科学の原点で、成長につながります。

最後に先生にとっての医療とは?

Sense Of Wonder

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