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白尾 英仁氏

2015年にリニューアル移転した都城市郡医師会病院。都城北諸県医療圏の約19万人、763平方キロメートルの広域にわたる地域医療支援病院および災害拠点病院である。
宮崎県初のドクターカー導入、屋上ヘリポート設置、夜間急病センターの併設、交通外傷にも対応できるよう、整形外科を新設―。
救急医療体制を強化し、「地域のすべての救急患者を受け入れる」という覚悟の裏側には、大学病院や地域の病院同士での緊密な連携があった。宮崎大学医学部附属病院の救命救急センターで経験を積んだ若い医師たちが、県内各地に散らばり、救急医療の輪を広げている。そのキーマンの一人にお話を伺うことができた。

プロフィール

しらお ひでひと/都城市出身

1999年度、自治医科大学卒業。県立宮崎病院で2年間の初期研修を経て、美郷町や西米良村などへき地の診療所に赴任。そこで総合医療と救急医療の両方の必要性を体感。県立宮崎病院で小児科医として勤務し、2010年の宮崎大学医学部地域医療学講座や、その後の宮崎大学医学部附属病院救命救急センター立ち上げにも参画。2012年の救命救急センター稼働開始から、救急医及びフライトドクターとして勤務。2015年より都城市郡医師会病院救急科に出向し、臨床と後進の指導にあたっている。

■資格

・日本救急医学会救急専門医
・社会医学系専門医(日本災害医学会)
・日本航空医療学会認定指導者
・日本DMAT隊員(統括DMAT)

・宮崎県災害医療コーディネーター
・臨床研修指導医
・日本医師会認定産業医

■所属学会等

日本救急医学会、日本小児救急医学会、へき地離島救急医療学会、日本災害医学会、日本航空医療学会

へき地医療の体験から救急医療体制の構築へ

白尾 英仁氏1

白尾医師の初めての赴任地は南郷村(現・美郷町南郷区)。当時人口2,000人余りの小さな山村だった。

「自治医科大学を卒業後3年目からは、へき地への派遣が決まっていました。もともと田舎で働く医師の姿に憧れていましたし、医学生の頃から初期研修時代にかけて、臨床現場で最低限必要とされる知識や技術を習得して、準備していました。」

医師2名体制で、外来と入院患者の対応に加え、山間部の集落への往診の日々。地域医療は、コモン・ディジーズに広く対応すること、慢性疾患への対応、救急、予防、健康教育など、医療ニーズの種類は多岐にわたる。救急車すらない、消防非常備地区の村の、たった一つだけの医療機関で、一番近い高次医療機関である病院までは、1時間以上かかる。救急患者の搬送ともなれば、往復する間、無医村状態となってしまう状況もしばしばだった。

「1~2年おきぐらいに派遣先は変わるのですが、へき地を回っていて、一番困ったのが救急疾患への対応でした。初めは、中核病院への相談窓口すら分からず、やっと連絡がついても受け入れを断られることもありました。」

2010年に宮崎大学医学部に地域医療学講座(現・地域医療・総合診療医学講座)が立ち上がり、地域総合医育成センターが設立された。地域で活動するゲートキーパーとして総合医の育成が動き始めた一方で、白尾医師は、そのバックアップとなるべき救急医療の体制確立の必要性をより強く感じるようになった。

「2012年からのドクターヘリの導入は決まっていたものの、運営体制は全くの白紙状態でした。地域医療学講座は、自治医科大学を卒業したメンバーが中心で、皆、現場で同じような経験をしていましたので、講座の中で、救急もやろうという話があがりました。」

池ノ上克病院長(当時)や救急部の准教授であった伊達晴彦医師、地域医療学講座の初代教授である長田直人教授、同じ自治医科大学出身であり地域医療学講座の設立に奔走していた松田俊太郎医師、日本医科大学千葉北総病院のフライトドクターとして第一線で活躍していた金丸勝弘医師も加わり、宮崎大学医学部附属病院での救命救急センター設立の動きが本格化した。

そして、2011年3月、東日本大震災が発生する。

災害医療へのきっかけ

白尾 英仁氏2

「現地に入ったのは、発災から5~6日目だったと思います。参集病院となっていた石巻赤十字病院は、近隣で唯一津波被害から逃れており、災害拠点病院として機能していたのですが…道中は津波に押し流された瓦礫だらけで、悲惨な状況でした。」

全国各地からDMAT(災害派遣医療チーム)やJMAT等の救護班が集結し、災害対応に追われていた。白尾医師は日本赤十字社宮崎県支部の救護班の第1班として派遣され、病院内や避難所での診療及びスクリーニング担当として避難所を走り回った。

「飲料水や食料は足りているか、毛布はあるか、取りまとめの担当者はだれがいるのかなど、避難所を調査して回りました。妊婦さんや乳幼児、認知症の方がどれぐらい避難してきているかという、医療ニーズに関することももちろんですが、お風呂の状況や、トイレを流す水があるかなど、ライフラインもチェックします。トイレ等が適切に管理できていないと、感染症が一気に拡大するんです。あとは…避難所に設置されていた掲示板に貼ってあった、『子どもがいないので探しています』等の伝言を読んだときが一番つらかったですね。」

災害医療備品

もともと白尾医師が災害医療に興味を持ったのは、自らが被災した際の経験が元となっている。

「2004年に西郷村(現美郷町西郷区)に赴任していた時のことです。宮崎県内各地に甚大な被害をもたらした台風16号の直撃を受けて、村内全体が三日間停電。当時は災害の知識もなく、何かできることはないかと災害医療について調べた時に、DMATの存在を知りました。その後、県立宮崎病院で小児科医として研鑽していた時に、DMAT隊員にならないかとお誘いを受け、これを契機に災害医療の勉強をはじめました。」

2016年の熊本地震時には、都城市郡医師会病院の仲間と共に、DMATとして現地に入ることになる。

「前震発生から6時間後には、熊本赤十字病院に設置された活動拠点本部に参集しました。その後宮崎大学DMATと共に益城町役場に設置された前線本部に赴きました。当初は人的被害も少なく、あまり医療ニーズはなかったんですね。DMATは要らないかな、と翌日の撤収を検討していた際に本震が起き、そこから様相が一気に変わりました。本震直後から夜明けまでは、病院に次々と押し寄せる怪我人の対応に追われる中、PICU(小児患者専門の集中治療室)に入院中の重症患児全員を、県外に搬送するというミッションが発生しました。病院内の小児科医の夜を徹しての尽力や、関連学会及び全国の小児医療施設の迅速な対応により、搬送先自体は決まっていたのですが、そこまでの搬送方法が無かった。院内に設置されていた2つのヘリポートは、本震の影響で使えない状態でしたので、近隣の陸上競技場に臨時ヘリポートを作り、防災ヘリで搬送しました。全国から参集した防災ヘリの協力を得て、無事にミッションを終えることが出来ました。」

「地域のすべての救急患者を受け入れる」という覚悟。

DMATドクターカー

DMATは災害の発生直後から72時間以内に活動する専門チーム。その後に、JMATや福祉、精神科医療のチームが出動する必要性が出てくるため、超急性期からここにつなげる役目も災害医療の課題の一つとなっている。

「熊本の場合は、最初から阿蘇保健所を中心とした組織連携をしていました。ADRO(阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議)というのですが、これが将来的な災害医療のモデルとなっていくと思います。」

震災の4日目に立ち上がったADROは保健所長が組織の長となり、DMATロジスティックチームと集団災害医学会コーディネートサポートチームのメンバーを中心に、県外からの支援等に対する調整にあたった。更に、現場での指揮調整と、ADROから被災市町村にリエゾンを置き市町村保健師を補佐する形で、現場の情報収集を行っていた。

白尾 英仁氏3

また、災害時には妊婦や乳幼児への対応も重要となっている。

「DMAT隊員は、普段は救急医療に携わっている人が多いのですが、赤ちゃんや妊婦となると領域が特殊で、対応が難しいんですね。逆に、小児・周産期を専門としている先生の方に、災害医療の知識がある人も少ないので、DMATの中で、小児・周産期医療の知識がある人がいればベストですが、緊急時にそこまでの体制は組めないですよね。災害時には、平常時の救急医療体制が破綻して社会資源等の制限がかかるため、そういう場合はDMATの方が専門的な知識やノウハウを持っています。ところが、妊婦や未熟児、小児の扱いとなると、小児科や産科周産期の専門医しかわからない。その間をつなぐのが災害時小児周産期リエゾンの役割なんです。」

国からの要請により、各都道府県で立ち上がった災害時小児周産期リエゾン。大都市と地方では医療事情が異なるため一概には言えないが、宮崎県の場合、平時より小児医療及び産科周産期医療体制における、県全域にわたるネットワークがあるため、DMATからその既存のネットワークにつなげることができれば、という視点で、訓練やシミュレーションを行っている。

「大規模災害時には、ネットワーク自体が生き残っているかも課題で、2018年8月に行った訓練(内閣府主催の大規模地震時医療活動訓練)時には、宮崎市内の医療機関内での事案を想定して、新生児搬送のシミュレーションを計画、実働訓練を行いました。南海トラフ地震の津波で、宮崎市郡医師会病院が甚大な被害を受けたという想定で、そこからの患者の転院であったり、県立宮崎病院内で突然重症の新生児が生まれたという想定で、宮崎大学医学部附属病院までどう搬送するか等のケースを考えました。」

人でつながる救急医療連携

ドクターカーに乗る白尾 英仁氏

2015年の都城市郡医師会病院の移転準備に伴い、大学の救命救急センターから出向する形で赴任。移転と同時に救急病棟を新設し、急性期医療の受入体制を充実させた。近隣病院では受け入れの難しい、特に夜の時間帯を、都城市郡医師会病院内の夜間急病センターで、可能な限りカバーしている。

「まず、医師会病院という役割がありますので、開業医の先生たちからご紹介を受けた患者さんはすべて受け入れるという方針です。急性期をここで診て、状態が安定し急性期の状態を脱した後は、患者さんのことを一番理解している、かかりつけ医の先生方に以後の対応をお願いする、という形で連携を行っています。病院前診療においては、ドクターカー導入は宮崎県で最初でしたので運用の経験値は貯まっていますし、重症で当院での対応が困難な場合には、宮崎大学医学部附属病院の救命救急センターへ支援をお願いしています。普段から顔の見える関係があるおかげで、一次から三次までの連携がしっかり繋がっていると実感しています。」

その一方で、地域完結型の医療の提供も課題となっている。えびの市や小林市などの西諸地域や鹿児島県の曽於市・志布志市あたりから搬送される患者も多く、実際は二次医療圏の範囲よりも広域の医療需要がある。

都城市郡医師会病院

「総合病院といっても、当院は、循環器科・外科・脳神経外科・整形外科と、対応できる分野はある程度限られています。都城北諸県医療圏では、中核病院同士がもともと顔の見える関係ということもあって、連携が取りやすいです。特に救急分野では、消防機関と救急医が共同で事後検証等を行うメディカルコントロール協議会に、各施設の先生方にも参加していただいております。病院前救護を担う救急隊員からの問題提起や、受け入れる医療機関側の事情も伝えられ、直接コミュニケーションをとれる場になっているので、心強いですね。」

人口が少ない地方都市では、専門の医療施設を地区ごとに立ち上げるのは難しい。その解決策として都城北諸県地域の医師たちが取り組んだのは、総合病院同士が、それぞれの特性を生かした連携を取ることで、医療資源の不足を補い合うことだった。総合病院に一定の医療資源を集約し、さらに医療機関ごとに役割を分担することで、急性期から高度医療までを広域に提供できるようになりつつある。

「現在メディカルコントロール協議会でテーマとなっているのが、高齢者に対する救急医療体制づくりです。団塊の世代が人生のエンディングを迎えるにあたり、急激に増える医療需要に対し、消防や医療機関だけでなく地域全体でどう対応していくのか、全国的にも課題となっている状況です。」

地域を支える救急医療と被災者を救う災害医療。同じ志を持つ医師が育ち、地域医療を支えていく。

看護師達と白尾 英仁氏
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宮崎県地域医療支援機構(事務局:宮崎県医療政策課)
〒880-8501 宮崎県宮崎市橘通東二丁目10番1号 TEL 0985-26-7451
ishishohei@pref.miyazaki.lg.jp