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𠮷永 浩介 氏

15年ぶりに産婦人科を再開した小林市立病院。再開に至るまでには、地域の産婦人科での分娩受入れの病院や診療所がゼロになるという危機的状況があった。小林市・えびの市・高原町の西諸地域では、2017年の夏からお産の場がなくなり、地域の妊婦は圏外への通院や入院をせざるを得なくなった。各自治体職員のほか、宮崎県医療薬務課、地域医療を考える会などでその対策を検討し、産婦人科医と小児科医の確保にあたった。取り組みからわずか1年、宮崎大学医学部と県立宮崎病院からのサポートで、自治体病院として通常分娩を受け入れる態勢が整った。

このスピード復活を担ったのが、えびの市出身の𠮷永浩介医師。Uターンに至る経緯と、地元への思いを伺った。

プロフィール

よしなが こうすけ/宮崎県えびの市出身

1994年、東北大学医学部卒業。医学博士。東北大学病院で婦人科准教授として診療と研究に従事。2011年の東日本大震災後、大学病院でのすべての職を辞し、石巻赤十字病院の復興活動に専念。2013年に、国立病院機構仙台医療センター産婦人科の医長に就任。ハイレベルな周産期医療の提供と、臨床研修の統括責任者としても、東北大学医学部と連携し、多数の研修医・専門医の教育に尽力する。2018年、小林市立病院に入職。

■資格

・日本産科婦人科学会専門医
・日本産科婦人科学会専攻医指導医
・日本婦人科腫瘍専門医
・日本婦人科腫瘍指導医
・日本臨床細胞専門医

・日本がん治療認定医
・母体保護法指定医
・臨床研修指導医
・緩和ケア研修会修了
・新生児蘇生法専門コース修了

■所属学会

日本産科婦人科学会、日本産婦人科医会、日本婦人科腫瘍学会、日本臨床細胞学会

産婦人科医になったきっかけは?

𠮷永 浩介氏01

医学生時代は、特に目指していた診療科はなかったので、産婦人科に進んだのは、卵巣がんに関する学術的な興味が先でした。不思議じゃないですか。「生命を作る臓器がなぜ、がんになるのだろう?」って。しかも、卵巣の腫瘍は非常に種類が多いので、研究対象としても魅力がありました。

ただ、今思うと、医学部5年生の時に見学に行った病院での出会いが、産婦人科医としての原体験になっているのかもしれません。

当時は、病院見学といっても、部活動の先輩のところに遊びに行くぐらいの感覚だったのですが、その先輩の上司は、大学の偉い先生でもなんでもない、普通のおじさん。ただ、ニコニコ仕事をしているだけなのですが、夜中に起こされても文句ひとつ言わずに、笑顔で赤ちゃんを取り上げていました。

その病院は地域の中核病院で、年に1000件ぐらいの分娩があるのですが、いつでも変わらず働いていて、「地域を守っている」姿を感じました。今でも一番尊敬している産婦人科の先生です。

研修医時代の思い出は?

私が卒業した時代の東北大学医学部の研修制度は、ちょっと面白くて、卒業後3年は大学の外の関連病院で働くという、独自のマッチングシステムがありました。東北全域の関連病院側は、内科と外科志望の学生にプレゼンテーションをして、学生が働く病院を選べるという、今のマッチング方式に似た仕組みです。当時、東北大学医学部と名古屋大学医学部だけが実施していたと思いますが、50年前の学生運動の影響もあって、大学と関連病院と学生の代表との間でインターンの就労条件などを話し合う、三者協議会があったんです。

私は、産婦人科に直接入局したのですが、関連病院での研修が普通の流れでしたので、大学の外に出て、卒業後3年間は岩手県立宮古病院で産婦人科医として修業しました。今は岩手医科大学の管轄なのですが、昨年12月まで週末だけお手伝いに行っていました。小林市立病院よりもやや規模が大きいのですが、へき地の自治体病院の産婦人科は、どこも同じように人手がなく、2人体制でしたので、サポートが1人いるだけでも随分と負担が減るんですよ。助産師だった妻と出会った病院でもあり、縁があった病院ですので、自分の修練も兼ねて、週末だけ通いの産婦人科医を続けてきました。

産婦人科医の減少という危機

𠮷永 浩介氏02

2004年に「大野病院事件」という産科医が逮捕されるという事件(※編注:帝王切開手術後に妊婦が死亡し、業務上過失致死及び医師法違反容疑で執刀医が逮捕、2008年に判決は無罪となったが医療界に大きな衝撃を与えた。)がありました。その影響で、産婦人科医も志望者も相当減りました。産婦人科医の数が減ると、一人ひとりの医師の負担は当然増えます。

2005年に、東北大学に戻ってからの主な仕事は、医師のリクルート活動でした。初期研修制度も始まった時期でしたので、産婦人科志望の研修医をリストアップして会いに行く日々。また、実習で回ってくる5・6年生の教育担当として専任することになりました。

もう一つ、「教室員会」という東北大学医学部全体の医師の組織があり、その委員長を拝命していました。教育の取組や福利厚生、研修の環境整備などを団体交渉する労働組合みたいなものですが、東北大学にどうやって人材を集めるか、大学病院をいかに魅力的な研修環境にするか、関連病院とより良好な関係を作っていくには、など、診療科の垣根を越えて話し合う場になっていました。東北地方は昔から、初期研修医を大事にするという風土がありましたね。

ターニングポイントは?

𠮷永 浩介氏03

2011年3月の東日本大震災発生時は大学にいました。通信が遮断されて状況が分からず、次の日から与えられた使命は、宮城県内の南の地域の産科の診療所を足で回ることでした。分娩を受け入れている診療所の先生たちの安否確認と、出産間近の妊婦さんが来たら、拠点病院に救急車で搬送する段取りをつける。そんな状態が1週間以上続き、疲弊しつつあった拠点病院の医師を休ませるために、現場での診療にも入りました。

その時に感じたのが、「生きているうちにやりたいことをやっておくべきだな」という個人的な生き方の問題と、「自分だけ生き残ってもしょうがない」という家族や仲間に対しての想いでした。

震災の翌年は、石巻赤十字病院の復興にあたりました。被災時のごたごたは落ち着いていたのですが、震災前に地域に5施設あった分娩施設が2施設だけとなったことで患者さんが集中し、分娩が月間100件を超えることもありました。もともとそれほど分娩を取っていない病院だったので、常勤医は3人だけでベッドも20床しかなく、想定外の対応に追われていました。私が与えられた役目は、周産期医療を病院に認知させて、体制を整備することで、まずは病院側と折衝して、ベッドや手術日を増やしてもらい、外来診療の受け入れ態勢も整えました。手術件数は、前年の150件から倍になりました。

現在は、より体制を整えて、常勤医は8人程度、手術も年間500件を超えていると思いますが、医療資源を集中させて危機を乗り越えたことで、この地域の医療のスタンダードができたと思っています。

チーム医療への取り組み

𠮷永 浩介氏04

当院に入職する前に在籍していた仙台医療センターは、東北大学の関連病院の中では最も大きな病院の一つで、年間1000件の分娩があり、産婦人科医は11人、助産師さんも50人所属していました。地域周産期センターの統括として派遣された私の役割は、多職種間でのチーム医療を根付かせることでした。周産期医療では、産婦人科医と助産師さんや新生児科医師との情報共有、手術に関わる麻酔科医や病理医、放射線科とも毎週カンファレンスを重ねていました。また、仙台は在宅緩和のメッカでしたので、緩和医の先生たちとケースワーカーの方とのカンファレンス等、多職種をつなげるのが主な仕事でした。

産婦人科の専門医研修カリキュラムでは、カンファレンスの実施は必須ですが、仙台医療センターも産婦人科専門医研修の基幹病院でしたので、教育病院としての仕組みを整える必要がありました。産婦人科専門医に限って言えば、大学病院だけでなく、一般病院を入れようという学会の動きがあったんですね。だから、どの都道府県にも2つずつ以上は産婦人科専門医研修の基幹病院があるはずです。宮崎では、宮崎大学医学部附属病院と県立延岡病院ですね。

宮崎に移住するきっかけは?

𠮷永 浩介氏05

仙台医療センターを辞めることを決心したのは、自分の残り20年ほどの医師生活で、やりたいことは何なのかを突き詰めた末に、地域医療もあるかなという思いが強くなったからでした。またその頃、産婦人科医師の同期を病気で亡くし、生きている間に自分のやりたいことを、と踏み出すきっかけになりました。ただ、開業ではなく、東北地方の産婦人科の医師たちのために、週末や夜間の診療を担う「隙間産業」を提供していきたいと考えていました。

既に東北大学産婦人科は、リクルート活動がうまく回っていて、毎年10人ぐらいずつ産婦人科専攻医を確保できるようになってきていたこともあり、大学と関連病院は大丈夫だなという思惑もあったんです。

宮崎に戻ることになったのは、今から4、5年前にえびの市長から手紙を受け取ったのがきっかけでした。地元出身の医師一人ひとりに手紙を出したそうなのですが、えびの市の医療を救って欲しいという内容の手紙です。事務局長に返信して、それからしばらくメールのやり取りをしていたのですが、2017年の5月に「大変なことになりました」という連絡がありました。西諸地域で分娩を受け入れる医療機関が一つもなくなったという衝撃的な話でした。

えびの共立病院の黒木院長にお電話をして、7月にお会いすることになったのですが、その際に、黒木院長が懇意にされている宮崎大学医学部附属病院の鮫島先生とご一緒にいらしたんです。鮫島先生は院長に就任されており、同じ産婦人科のうえ、地域医療への造詣も深く、その時初めて、「小林市立病院に産科を復活させたい」というお話を聞きました。

小林市立病院での医療活動の展開

𠮷永 浩介氏と小林市立病院

まったくゼロからのスタートというわけではなく、いろいろと良い条件が重なっていました。もともと宮崎大学医学部附属病院からは、週2回、小林市立病院へ医師を派遣して妊婦検診をしていたこともあり、サポートの話もスムーズに進みました。病院スタッフも妊婦外来に慣れていましたし、なにより看護師長が助産師でもあり、15年前にここの産婦人科が閉鎖になってからもずっと勤めていらっしゃったというのが大きかったですね。

周産期ネットワークの中では、当院は分娩一次施設になるので、二次施設である都城医療センターをはじめ、県内外の周産期医療センターや九州大学病院等へ30件以上、ご挨拶に伺いました。まだ、産婦人科の常勤医は私だけですが、助産師が7名に、さらに募集をかけています。産後ケアが専門の開業している助産師さんもサポートに来ていただいていますし、市長も、病院事業管理者も、地域住民も熱意が高く、また、県立宮崎病院からも応援にきてもらうことになっていて、県福祉保健部にも大変お世話になり、何かにつけて、協力体制が整っていたのは、とてもありがたいです。

現在、当院へは130人ぐらいの妊婦さんが通院しています。西諸地域の住民の出産数は年間500件ぐらいですので、約3分の1が来院してくれていることになります。ほかの妊婦さんは、宮崎市や都城市や人吉市まで通院していらっしゃると思いますが、夜間や週末に急変があったり、あるいは妊婦検診だけでもここで診るとか、分娩ありきでなくてもいいので、いったん立ち寄る場所ができたと、フレキシブルに利用していただいて、西諸地域に住む妊婦さんたちの安心材料になれればと思っています。

最後にメッセージを

𠮷永 浩介氏と助産師スタッフ

東北にいた頃の仕事の一つは、産婦人科の「集約化」でした。医師を集めれば、効率的に分担することができますし、負担も軽減できます。他の診療科の医師もそろっている総合病院なら、妊婦さんの急な心筋梗塞にも対応できたり、脳出血にも対応できたりと、リスクを減らすこともできるでしょう。ただ、高度に集約化された病院や地域では、患者さんが遠くまで通院しなければならなかったり、産科が無くなった地域の活気がなくなっていったり、という面も見てきました。

今ここでやっている仕事は、全く逆だと感じています。地域に根差した病院であり、ネットワークの一端として医療を提供しています。今、宮崎大学の5年生が実習に来ていて、超音波などの妊婦検診を体験してもらっているのですが、妊婦さんたちに「産婦人科志望の医学生が来ているんだけど、赤ちゃん見せてもらってもいい?」と聞くと、もう喜んで見せてくれますよ。

この病院でなすべきことは、ハイリスクを見極めてトリアージし、高次施設と連携していくことだと思っています。その上で、この病院で赤ちゃんの産声が上がると、西諸地域自体の力になっていくという想いはありますね。この想いに賛同いただける方、大歓迎です。

小林市立病院

小林市立病院

所在地:〒886-8503 小林市細野2235-3
電話:0982-66-3141
病床数:147床(一般病床143床、感染症病床4床)
診療科目:内科、循環器内科、糖尿病・内分泌内科、消化器外科、腫瘍外科、救急科、小児科、泌尿器科、整形外科、麻酔科、心臓血管外科、神経内科、産婦人科、放射線科、リハビリテーション科、呼吸器外科

小林市立病院

小林市立病院

所在地:〒886-8503 小林市細野2235-3
電話:0982-66-3141
病床数:147床(一般病床143床、感染症病床4床)
診療科目:内科、循環器内科、糖尿病・内分泌内科、消化器外科、腫瘍外科、救急科、小児科、泌尿器科、整形外科、麻酔科、心臓血管外科、神経内科、産婦人科、放射線科、リハビリテーション科、呼吸器外科

宮崎県地域医療支援機構(事務局:宮崎県医療薬務課)
〒880-8501 宮崎県宮崎市橘通東二丁目10番1号 TEL 0985-26-7451
ishishohei@pref.miyazaki.lg.jp