日向市出身、1998年宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)卒業。
日本腎臓学会腎臓専門医、日本内科学会総合内科専門医。
初期研修は総合診療の教育病院に学び、2006年に宮崎大学医学部附属病院の卒後臨床研修センターに招へいされ、2008年副センター長に就任。研修プログラムや研修環境の充実に情熱を傾け、研修医のコンシェルジュとして日々活動中。
医療の道に興味はあったものの、臨床よりは理系の研究者としての進路を模索していた高校生時代、まもなく受験を控えた高校3年生の秋に、「人の役に立ちたい、人助けをしたい。」そんな想いが沸き上がり、突然進路を理学部から医学部へと変更。そこには高校の国語の先生からの、とある言葉があった。
「目の前の人を助けたいのなら、お医者さんを目指してみなさい。」
患者さんのために、自分で考え、判断し、治療方針を立てて的確な指示を出す。そんな医者になりたいと宮崎医科大学へ進み、卒業後の前期研修(ジュニアレジデント)は、天理よろづ相談所病院の総合診療部で学ぶ若き研修医時代。そこは総合外来・総合病棟を新設して各科の壁を取り払った総合診療制度を導入した日本で初めての病院で、今日の全人医療の必要性の高まり、専門診療に偏った医療の現状の補完など、先駆的な取組を行っていた。
総合病棟も、研修医を教育するための場であり、従来の臓器別の専門科をローテートするという研修方式ではなく、様々な体の不調を訴えてやってくる患者さんと対峙し、幅広い領域の疾患を診るというまさに臨床の現場。総合診療能力と問題解決能力を身につけ、専門科の指導医の指示のもと、検査や治療の実践的な技能を学ぶという教育方針。「徹底的に鍛えられました。」と語る小松医師。
その後、母校に戻り、内科の医師として働き始め、ほどなく大学院生として臨床研究へとシフト。もともとの研究者になりたいとの想いも捨て切れずに、「臨床家」と「研究者」、二足のわらじを履きながら、医師としてのキャリアがスタートしようとしていた。
一方その頃、新臨床研修医制度が始まって2年目、宮崎大学医学部の臨床研修医の数が減少し、全国でもワースト5の常連という有様で、それを打開したいという声が研修センターはもちろんのこと医局からも聞こえるようになっていた。原因としては、大都市のいわゆるブランド病院へのキャリア志向の流出が止まらない、また、大学時代から宮崎に来た宮崎県外出身の学生も地元に戻りやすくなっていること、そもそも医師不足が叫ばれている宮崎県内の病院勤務が激務であることなど、複合的な要因で卒業者の定着率が25%(全国平均は50%前後)を下回る事態となり、危機的な状況であった。
そんな時に病院長から、卒後臨床研修センターで、研修医を管理できる、ほどほど若いドクターはいないかということで白羽の矢が立つ。この時、31歳。総合診療で鍛えられた研修医時代の経験が生かせるのでは、まして母校の役に立てるのならと、臨床と研究に加えて、「教育」という新たな分野に足を踏み入れることとなる。
「今でこそ笑い話ですが、当初は、研修センターに書籍やDVDといった研修教材がない、更衣室がなくて着替えられない、手術着に穴が空いていて下着が見えてしまう、といった研修医からの声をもとに、センターの設備や環境づくりから手をつけていかざるを得ない状況だったんですよ。」
小松医師の仕事は、初期研修の2年間を通して彼らの成長を見守るというのが主な役割。各診療科の指導医の先生方から臨床現場で実践教育を受けながら、基本的に研修医は2・3か月単位で各診療科や病院を移っていく。研修医の中には、現場を体験したことによって医師を続けることへの不安が生じることもあれば、様々な症例を診ることで自分の適性について迷う人もいないわけではない。そんな彼らの医師としてのスタートに立ち会い、研修中の不安や悩みを聞いて、それを研修制度や環境改善の提言につなげている。
「私は指導医というよりは、医学部を卒業したばかりの学生が立派な医師として成長し、初期研修を無事に巣立っていってもらうための指南役、お世話係、ホテルでいうところの”コンシェルジュ”という表現がぴったりくるんです。一人ひとりを2年間通してみたときに、医療の知識や技能の習得もさることながら、一社会人としての素養や医師としての患者さんに対する感性が身についているかという視点で、彼らを見守っています。」
宮崎大学医学部附属病院には18の診療科があり、これに加えて、協力型病院が30施設、地域医療を担うへき地病院や診療所が15と、宮崎県全域とそれぞれ密着した多彩な研修フィールドが用意されている。研修医一人ひとりの研修希望を最大限に尊重しながら、これらの診療科と病院の中から自由な組み合わせで研修できる、オーダーメイド型に近い研修システムを実践している。
「第一内科で2年間の病棟勤務と4年間の大学院生活を経験したことで、臨床現場も、研究・教育の場としての大学も、どちらの傾向も理解しているつもりです。研修医はいま、何を望んでいるのだろうと、彼らの率直な意見を聞きながら、研修の質や指導体制、学べる内容も精査し、より魅力的なプログラムになるよう日々考えています。」
附属病院では三次医療機関として、難しい症例の診断や治療を経験し、症例についても専門医からのアドバイスを受けることができる。かたや、地域の診療所や市中病院では、一般的な症例の初期診断や、その後のプロセスなども含め、経験豊かで人情味あふれる指導医のマンツーマンのトレーニングで、医療スタッフはもとより、患者さんやその家族とも交流して、医師としての素養を醸成していく。
小松医師は、「この様々な出会いの中でこそ医師として学ぶ本質がある」と語る。宮崎県の臨床研修制度は、県内各地の広いフィールドで、最低限経験すべき症例と一般的な医療に触れ、幅広い視野を持つ医師として成長するのに最適の場が整っている。そしてそれは、初期研修を修了し専門領域に進んだ時にも、周辺知識がありバランスのとれた医師としての礎となる。
総合診療を入口に、現在は大学で臨床と研究と教育に携わっている小松医師。医師としてのキャリアを40年近く積んでいく中で、総合診療的な志向と専門医的な素養との両方を持つことがベストと考えている。専門を極める医師も必要、町や村のお医者さんとして住民とともに暮らしていく医師も地域社会にとって大切な存在。今は「専門医」VS「総合医」という図式で語られることが多いものの、早期の段階では両者がどんな役割を担っているかを知り、先々はどちらかに力点を置いて進むにしても、どちらも経験しておくべきと説く。
「医師としての道は、多彩であってもいいのですが、8割ぐらいの人は両方を行ったり来たりできている方が医師としての成長も見込めるのではないか、そういう環境を作りだすのが、私たち研修センターの役目であると信じています。」
患者さんを診れるということと対処できるということは、実際には大きな隔たりがある。しかし、この宮崎の研修プログラムに賛同し、ここで学ぶ研修医たちは、この2年間で幅広い領域を経験し、先輩医師が医療の最前線でどういう感覚で患者さんをマネジメントしているのかを知り、そして高次機能病院に送られた先で最後まで患者さんを診るという視点の両方を学ぼうという意識が高い。
今、社会で求められているのは、気軽に声をかけられてコミュニケーションのとれる、患者さんの不安に寄り添ってくれるような、心の温かいお医者さんです。勉強を頑張るのはもちろんですが、とりわけ周りとの関わり、友達との関わり、先輩との関わりというものを常に頭の片隅に置きながら、学生生活を過ごしていってほしいと思います。
そして研修医から修業期間として、できれば10年ぐらいの間は、地域医療の現場と大学病院を行ったり来たりしながら、両方をいいタイミングで経験しながら、学んで欲しいとも思います。大学のプログラムを使って、宮崎という地方の研修医だからこそ実践できる、外に行ったり中に戻ったりということを、自分なりに考えてローテーションを組んでみてください。
地域医療を目指すと、もう高度先進医療はできないんじゃないか、という心配は無用です。地域を目指す方こそ、一定期間は専門医療を学び、またそのスキルを持って一般臨床にあたる、そこでまた、求められているものは何かを考え、足りないものがあれば専門性も探究する…というふうに成長してほしいのです。それが、本当に現場で必要なお医者さんです。逆に、しばらく大学にいると、一般にありふれた症状に対する経験値がやはり落ちていきます。こういう場合も一定の周期で、外の協力病院でトレーニングして、という仕組みができるとより一層、宮崎の医療は充実していくのではないかと考えます。
そして、地域医療にこそ、これから求められる医療の本質や、新しい医療の形が出てきます。都会が先端ではなく、地域にこそ次のSeeds―種が芽吹くのは間違いないと考えます。地元を愛して地元を大事に、積極的に患者さんに関わっていくことで、医者として、サイエンティストとしてのチャンスも生まれていくはずです。
ここ宮崎というのは、人と人とのつながりを大事にする土地柄で、医師もまた、患者さんから鍛えてもらいながら、地域コミュニティの中で人間としても成長していく。医師としても人間としても、果たすべき責任は重いけれど、とてもやりがいのある仕事です。宮崎でいっしょに医療の道を歩んでみませんか?